本のタイトルを見た瞬間、多分こういうことを言いたい本なのでは?という仮説を立ててみた。
▼なぜ便利は人を不幸にすると言えるのか?
- 不便さから工夫が生じると思えば、すでに便利であることはそれ以上の工夫の余地をなくすし、容易に扱えることは、すなわち理解も容易なものだという錯覚を生むから?(インフラや水道水の蛇口の仕組みなんか知らなくても、水は飲める世の中である)
- 選択肢が多ければ多いほど、人は比較・検討に認知負荷がかかるのでは?(うろ覚え『選択の化学』)
- 不便であれば、本当に必要なことにしかフォーカスができず、リソースの分配について明確な優先順位がつけられる。便利さは、あらゆる難易度を「簡単」にまで平すので、便利さが溢れると、簡単なものが溢れて、何を優先すべきかはっきりしにくい?とはいえ、不便すぎて生活水汲むのに半日かかる生活は嫌だな……。最終的に労働時間は変わってなさそうだから、生きるってそんなもんなのかもしれないが。
大まかに、こんなところかな。
それじゃあ実際に本を読んでみるか、レッツゴー鎌倉!
しまった、この本……読んだことがある……!!(P16めで強烈な既視感)
読んだ覚えがあるせいか、ちょっとパラ読みになってしまった。以下、本の内容と私の感想が入り混じったメモ。
・きりのない欲望。終わりのない不幸。どの時代、どの場所にいようと、結局のところ、人間のあらゆる悩みの総量は同じなのである、という仮説があるそうな。ここを読んで、「これ聞いたことある!それで、数年前の私は納得した覚えがある!この本読んだことあるな!?」と気づいた。ちなみに今は、数年前よりも悩みが減った(悩みの質も良い方へ変わった)という体感があるので、「え〜そうか〜?」と太々しく言える体になってしまった。
・最近の家電はすごい。知識のない人でも簡単に扱えることができ、スイッチひとつで飯が作れるし、掃除機も動く。何もしなくても冷蔵庫は冷えている。それらを動かす電気について意識することも特にない。認知負荷が全くかからないまま、ただ無意識に便利さを享受できるということは、とても素晴らしいことだ。しかし、便利に扱えるせいで意識に登らず、なんとなく知っているというだけで十分、理解をしようとまでは思わない、ということもある。それが大きなデメリットになることはあった。東日本大震災、原発などの災害への認識、それらへ対応する専門家への対応などだ。便利さを支えている技術が理解の範囲を超えているものだという認識は、ある程度持つ必要があるのではないか。
・個人ごとに独自の価値観を持つとはいうが、今は「便利」「快適」「安い」「速い」という前提が当たり前になってきているのでは?世界が多様化しているとは思うが、根っこのところはみんな同じになりつつあるのかも。(葉っぱの生存戦略)
・便利さで生まれた余剰時間で人は自由を得られるが、便利すぎると単純に人から「動き」を奪うものかもしれない。寝っ転がってスマホいじってばっかりになってしまうだとか。人も動物なので、単純に動くこと・思考を働かせること、この辺りはできた方がいいだろうと思うし、なんかいい感じにフュージョンできるような新しい便利さの概念がもっと生まれないものかな。
・アー!!!!伊藤計劃のハーモニーの話してる!!!!!!そういえば私この本で伊藤計劃を知ったような気もする!!!!!!!!!数年越しの伏線を回収してしまった。数年前の私へ、その小説は今の私が読んでおいたから、感謝してくれよな。
パーフェクトハーモニーってまだ通じるのかなメモは以上。事前に考えた本の内容の想定とは、まあまあ一致していて、まあまあ外れたと言ったところ。
私の総論としては、単純に人間の人格というかモラルというか、そういうものが今の技術に追いついとらんから、運が悪いと不幸になっちゃうことが多いのでは。じゃあどうするか、という課題が当然セットになってくるわけだが、どうしような…。なんだか雑なまとめになってしまった。