「2022年8月」の記事一覧

市民の幸福を管理するコンピュータ様

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データ管理は私たちを幸福にするか?自己追跡の倫理学 / 堀内進之介

データ管理、自己追跡(セルフトラッキング)。私はApple WatchやiPhoneと連携する体重計、それらで収集したトラッキングデータをiOSのヘルスケアに集約し、アプリで解析させたり自分で眺めてニヤニヤするのが割と好きなので(そしてその数値をもとに改善意識が生まれたりするので)、データ管理は我々を幸せにするのでは?レコーディングダイエットでセルフトラッキングしまくっていたせいでなんとかなった覚えもある。データ管理は私たちを幸福にするか〜?YESだね!という先入観のもと、読み進めた。

▼第1章:「分かる」と「できる」の間の深い溝
スーダラ節に「分かっちゃいるけどやめられねえ」と言う歌詞があるが、我々も、ジャンクフードを目の前にして、知識としては「絶対体に悪い」と思っているのに、欲望が自制では止められずに、そのままフードトラップに嵌ってしまうといったようなことは多々ある。こういった状態を『アクラシア』、アリストテレスは意味を「ある行為を悪いと知りながらも欲望のために行ってしまう心の傾向」としたらしい。
「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」みたいな名言があるが、愚者も歴史くらいは知っている(大体学校で学ぶ)。しかしそれを活かすだけのセルフコントロールがないせいで状態が悪化してしまい、知ってはいるものの、様々なバイアスや状況に流されてしまい、痛い目を見た経験ができてからようやく行動を改善する。しかし、それは愚者だからではなく、もともと人間はそういう性質の持ち主であり(分かってはいるができない)、一部の賢者に『※彼らは特殊な訓練を受けています(分かったことができる)』というテロップがついているだけでは?そうであるなら、我々はこのダメな性質をどうしていったら良いのか?みたいな話だったと思う(うろ覚え)

▼第2章:定量化される自己
例え人間がダメな気質を持って生まれてきたとしても、それを補うことはできる。例えば、物語の主人公のそばには、モラルアドバイザー(道徳的な助言者。お前ならできると言葉で励まし、旅路を助け、時によからぬ道に進みそうな主人公を叱咤する)がいることが多い。現代ならばその役割を、お手持ちのスマホのヘルスケアや各アプリが担ってくれている。(運動量が足りていないと知らせる、朝7時になったら起こすなど)
また、己の曖昧な認識で捉えていた出来事も(たまには自分へのご褒美にアイスを買うか)、具体的な数値にして定量化されると(1週間に5回ご褒美アイス食っとるな)、状況に対しての改善が行いやすくなる。
日記、計量、スマートウォッチによるバイオトラフィック等、自己追跡(セルフトラッキング)を行って己というデータを管理する環境は、すでに現代に浸透している。これらのデータによって「説得」されれば、「分かってはいるができない」から、「分かってはいるができない、しかし、できるようになりたい、何かいい方法はないだろうか?」と意識の改善の余地が生まれる…みたいな話だったと思う(またうろ覚え)

今日はここまで!

前世は君だった

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言葉を生きる / 池田晶子

前回は『第1章 心はどこに』まで読んだので、今日はその続きから。
▼前回

なぜ自分の内にないものが欲しくなるのか?なぜ自分の内にないものが欲しくなるのか?

『第2章 私とは何か』。テーマがむずかしいんだが?
他人と関わることで自分の輪郭を浮かび上がらせること。自分が何者であるかという個性の存在が、逆説的に己を空虚たらしめ孤独にさせること。役回りを持ち、自己証明をしなければならないと背負い込むこと。様々なところで「己」を前提に世界を認識していることになっているが、しかし、前回でも触れた通りに、自分が世界を認識している以上、世界もまた自分の頭の中にあるものである。他人との関わり合いの中で、その他人から見る己のイメージを感じたとして、しかしそのイメージも自分の認知によるところであれば、自分も他人も無いのかもしれない。
また、ときには、ある対象に感動して我を失い、まるで対象と一体化しているように感じることがある。これは、本の趣旨からはズレた感想になるんだけど、中島卓偉というシンガーが『STAY TOGETHER』という曲を作っていて、(ずっと一緒に生きていきたいと思った)「君の前世は僕だった」という歌詞のくだりを思い出したんだよな。好きな人とは一緒になりたい(そばにいたい、共に在りたい)、憧れている人の真似をしたい(近づきたい、取り入れたい、あなたになりたい)、これらのために自我という個をなくしてもよいと思える、そういうことがあるのであれば、やっぱ「己は世界であること」「自分のうちがわに外の世界が収まっていること」は理屈が通るのでは?

本をめくって数分で何が言いたいのかよくわからなくなってきたので、今日はここまで!てちゅがく、こわくて泣いちゃった。

いつやるの?

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独学大全 — 絶対に「学ぶこと」をあきらめたくない人のための55の技法 / 読書猿

やさしい英語の学習アプリから始まり、1日15問の漢字の書き取り、小学生の国語教材、中学の公民・地理と、最近楽しく学習のお時間を取れているので、興味があるうちに買えとばかりに1000Pを超えるの知の鈍器と噂の『独学大全』を手に取った。紙としばらく迷ったが、Kindleで購入。まあ鈍器が欲しくなったら別途買えばいい、と自分に言い聞かせるが、果たしてどうかな……(メチャクチャ貧乏性)。

さすがに1週間で読破してやるとかそういう類のものではないと思うので、今日から少しずつ読み進めるとする。評判がとてもいい本なので、じっくり学んでいきたい。本日は「第1部 なぜ学ぶのかに立ち返ろう」の「第1章 志を立てる」まで読み、なぜ学ぶのか?の動機づけから掘り下げて、その後の独学のモチベーションにつなげる核を可視化させるところまで読み進めた。

以下は、個人用のメモ。
私が学習したい動機がはいくつかあって、以下の通り。

(1)知識を得れば得るほど、日常で「お?これってこういうことだったよね」みたいな、ちょっとした気づきと楽しみが増える。学ぶことは人生の彩りになる。

(2)ほぼ(1)と同じではあるのだが、本や漫画を読んだり解説系動画を見たりして知識を得た後、散歩したり風呂に入っている途中、急に「あ、つまりこういうことか!?こういう解釈もできる!」とテーマに対して閃くことがあって、その現象がとても好き。この閃きでさらに連鎖的に閃くことがあって、「閃きのばよえーん」に辿り着くと、その瞬間メチャメチャ生き生きとメモをとってしまう。ばよえーんは歳がバレる。

(3)受動的に情報を大量浴びることはあまりよろしくないと考えている。体系立たず整理もできないままゴチャゴチャ覚えられるほど私の頭のキャパシティがあるわけではないし、返って将来頭ボケそう。ちょっと整理しながら、能動的に、興味のある分野を学習する(自分で考えて咀嚼して血肉にする)習慣を身につけたい。

(4)何処かの本で得たやり方で、悩みや考え事、何でもかんでも一旦紙に書き出す癖がつき、頭の中のゴチャゴチャの整理には言語や図形で可視化することがメチャ有効と思い知る。こういうのを知りたいし、活かしたいと思う。

(5)ちゃんと学んだダイエット知識で10kg以上痩せた、つまり、これまでの怠惰な習慣と本能に対して、学習した知識でぶん殴って勝てた成功体験がある。

(6)学生時代に真面目に勉強しなかったのだが、それが今になってちょっともったいなかったな〜と思っている。基礎知識があれば、今まで読んでいた本ももっと楽しくなったと思う。ただ勉強の代わりに熱中していたことで今食っているので、悪いことだったとも思い難い(今得ているこの環境が、私の理想のそれに限りなく近い)。私の勉強したいタイミングは、今だったんだろうな……ということは?いつやるの?今でしょ(結論)

これをもとに、本の中で紹介された『動機付けマップ』を作っていきた…眠い…今日はここまで!

テレビドラマ版のデビルサマナーの小説を持ってた覚えがあるな

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今日もせっせと漢字の書き取りをやっていたのだが、答え合わせの時に、葛藤の『葛』の漢字を間違って覚えていることに気づいて(下の「人」を「メ」=凶の形にしていた)、うーんせっかくだから語源覚えるか!と思い、『葛』の語源をググってみた。

すると、上のサイトさん曰く、くさかんむりと「曷=口と呼気の象形と死者の前で人が死者のよみがえる事を請い求める象形」で出来ているらしく、反射的に「(ソウルハッカーズの)葛葉キョウジ…ってコト!?」とハチワレめいてしまった。道理で葛って魂がなんとか〜みたいなキャラクターの苗字に採用されることが多いんだな。安倍晴明の母であるとされる狐(玉藻前)も、葛の葉を名乗っていたみたいな一説もあるもんな。葛葉キョウジには、ソウルハッカーズ2でも元気にシャッフラーマハラギオンしていて欲しいぜ。

はしゃぎ終わってようやく思い出した。「そういや葛藤って植物のクズとフジだが、どういう語源だ?」も調べてようとしていたんだった。weblio辞書で拾ってきた回答をメモ。はーんなるほど。

葛藤とは、もつれという意味のこと。英語では conflict と訳される。葛藤の葛は「かずら」と読み、藤は「ふじ」と読む。葛も藤も植物の蔓草(つるくさ)で、葛と藤が絡み合ってなかなか解けないことから葛藤の語がうまれたとされる。

weblio辞書

料理は器に綺麗に盛った方がより美味しく感じる理論

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生命倫理のレッスン-人体改造はどこまで許されるのか?- / 小林亜津子

10代向けのシリーズ・ちくまQブックスから、「人体改造はどこまで許されるのか?」という生命倫理について書かれた本。この本では、テーマとして「美容整形」「スポーツ選手のドーピング」「頭を良くするスマートドラッグ」について触れている。とりあえず先に、このテーマに対する自分なりの意見を簡単にまとめてみた。

「美容整形」…医療行為を超えた、自分をより良くするための改造手術という認識。100%本人の意志で行う分にはアリでは?と思ったけれど、自分の意志が100%なんてことないもんなあ。とはいえ、ドーピングやスマートドラッグに比べれば、忌避感はそれほど無い。歯列矯正も美容整形の一種だからかな。理屈としては問題なさそう。ただ、人間は社会の中で生きているので、周囲の人間の雰囲気次第で大きな齟齬が発生しそう。私個人の倫理的にはOKの部類になるな。美容整形、人間改造の一環として、遺伝子デザインの改造まで行えるようになったら、それはそれでまた考えます。

「スポーツ選手のドーピング」…これはNGの部類かなあ。スポーツは本人の努力は前提として、そのほかに遺伝子や環境、最新知識と金が物を言う世界だとは思うが、健康を過度に脅かすものは法律なりルールなりで規制されているので、それに違反するのは明確にNGでは?ルールに違反することが許容される社会になると人間社会そのものが成り立たないだろ。ただ、どこから「OKなドーピング」になるかは私も曖昧だなあ。カフェインくらいは許してもいいのでは……と言う気持ちもある。カフェインは明示されたルールには違反していないだろうから。しかしそのままだと明示されていない薬とかも後発で出てきそうだし、これがOKなら開発されてしまうし、人間の倫理観で歯止めをかけなくちゃなと慎重にならざるを得ないところだから、ひっくるめてNG判断に寄るのかも。ただ、世間の雰囲気とかが許していそうな範囲のものは、つられて「これは常識的にOKっしょ、コーヒー飲んだくらいなら」と判断をしてしまうと思う。(カフェインを受け付けない体質の人に対して不平等では?って言われたらめんどくせえな…じゃあ一律禁止にします?ってなるかもしれん、それが昨日日記にメモした『「人の得が許せない」みんな仲良く共倒れ「スパイト行動」』と言うものに関わってくるかも)

「頭を良くするスマートドラッグ」…スポーツ選手のドーピングと一緒。

今現在はこんな認識かな。と言うことで、以下は、本を読んで擦り合わせた感想。

「(整形するのは)本人の自由でしょ?」と言う言葉は、著書の中で指摘のとおり、いろんな問題を抱えているかと思う。人は社会の許容の中で生きており、全てが個人の自由として許されるわけではない。もちろん心の中で何を思うかは自由だが、アウトプットするには社会のルールや常識に則っている必要がある(本人の自由で犯罪起こしていいわけがない)。自分の認識を改めるか、常識の方が変わることを期待するか。その擦り合わせをしながら生きることを意識しなければならないのかなあと。美容整形なんてしたかったらしたらいい、化粧が良くて整形がダメな理由ってなんだよ?とは私は思うが、親は「不完全で醜い子供として産んでしまってごめん…」と傷つくかもしれないし、そういう親の気持ちが理解できる人は「親から貰った体で整形するなんて信じられない」と言うのも当然のように思える。その一方で「整形したらみんなが優しくなった。コンプレックスもなくなって心に余裕ができて、人生良くなった」と言う意見もあれば、「そう言うストーリーは美容整形業界の陰謀から与えられたものでは?」「整形で人生全て変わるわけがない、元々あなたの考えがダメで、自分の顔より、自分の考え方や評価してくれる人を変えようとしなかったの?」「整形なんて知らなかった、騙されたと思われても仕方ない」「整形すればなんとかなるという風潮も困る」ともなるだろう。

スポーツのドーピングについては、著書の中にあったんだけど、かつてオリンピックでロシアが女性選手に男性ホルモン等を投与することによってメダルを大量獲得させていたことがあったそう。オリンピックに出るような若い選手(未成年)はそのことを知らず、大会が終わった後に分かり、男性ホルモンで人体が変わってしまって性別変更を余儀なくされるみたいなこともあったよう。「上の立場から選手にドーピングを強要することを可能にする」「スポーツ大会が科学者たちの薬の効力のお披露目大会になる」「自分の実力で取ったと思ったメダルが薬の力であると知った時の選手の無力感、後の潰しの効かなさ」「人体を勝手に改造させられる」と言うような、様々な記述があった。言われてみれば、これは本当にそう。ちゃんと考えれば似たような答えは出たと思うので、想像力をコントロールしなければならないと反省しました。

スポーツは本人の努力以外の要素もある厳しい世界だとは思うけれど、日々トレーニングを頑張ったという過程も込みで試合を見ているわけだもんね…と思った時に、ふと「スポーツで過程というストーリーは重要な要素だけど、美容ではそこまで過程は重要じゃないな?対外的には、生まれつきカワイイことがよしとされるのでは?いや、スポーツも生まれ持った才能の無双が見たい人もいるか?」とも、ちょっと考えた。これはスポーツと美容、それぞれの業界の戦略に寄るものなのかもしれないな。

最後に、このように私たちは「より強く、美しく、優れたものであろうとする」のだけど、同時にそのことは「私たちが社会に生きづらさを感じる理由と深く関わっている」と著書の中にあり、これは本当にそうなんだよな……と頷いてしまった。美しくて、強くて、優れており、若くて、金があって、優しくて、人徳があり、誠実さと道徳性を持つ、みたいな完全体には果てがないのよな。自分と他人を相対的に考えることが生物としてのベースなのに、今は比較対象が多すぎる。そう簡単に答えが出せるテーマではなかったが、ちゃんと考える機会があって良かったと思う。