「哲学・思想・倫理」の記事一覧

読書:会話を哲学する コミュニケーションとマニピュレーション / 三木那由他

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最近、元少年院で教官をしていたVtuberさん(かなえ先生)の、根気強い対話でいかに少年たちの胸の内を推し量るかというトークに感心して、「会話」という話題に興味を持ち、ちょっと読んでみることにした本。

会話を哲学する コミュニケーションとマニピュレーション / 三木那由他

著者の方は、言語やコミュニケーションを専門とする哲学者の先生らしい。この本は、「会話という現象の魅力をフィクション作品を題材にして伝える」がテーマっぽい。既存のフィクション作品(金田一少年の事件簿、背筋をピンと!、ONE PIECE、めぞん一刻、うる星やつら、マトリックス、クイーン舶来雑貨店のおやつ等)から会話を持ってきて、それに対してどのような意味合いを推しはかれるか?という考察が続くものであり、フィクション作品のネタバレの嵐となっていたので(このサイトもそうだが)、ところどころ飛ばしてしまった。いい加減、私は『オリエント急行の殺人』を読まなければならない……!

この本がいうところは、人間が会話を行う場合、主にコミュニケーションとマニピュレーションの混合からなる、という解釈でいいのかな。

コミュニケーションとは、相手の気持ちを押し測ったり「約束事を共有するもの」として使われる。
例えば、久しぶりに会う友人に「元気してた?」と聞いたとして、それに肯定が返って来れば、二人が会っていない間、友人は、なんだかんだ元気していたという情報を『事実』として共有し、今後二人のうちではそれを運用していくことに同意したこととなるし、友人が「元気してたよ、そっちは?」と尋ねれば、私はあなたと同じレベルのコミュニケーションを返せる社会的な人間ですよ、私もあなたのことに興味がありましたよ、みたいなニュアンスを伝えることができる。これが「約束事を共有する」という意味でのコミュニケーションになる…ということだと思う多分。

対して、マニピュレーションは、会話を通して誰かの心理や行動を操作しようとすることである(この場合、悪意や善意、他意の有無は関係がなさそう)。例えば、学校から帰ってきた自分の子供が外に遊びに行こうとする時に投げかける、「あれ?もう遊べるんだ?」の一言で、裏にある「遊びに行くってことはちゃんと今日の宿題終わらせたってこと?違うなら遊びになんていけないよね?それが私との約束だよね」を相手に滲ませて伝えることができる。また、学校の先生が「あの子はいい子だよ、仲良くしてあげたら」という善意の提案も、先生はコミュニケーション、子供にはマニピュレーションの意図になるだろう。

少なくとも、人間同士で会話を行う場合、良くも悪くも裏にいろんなニュアンスがあり、互いに互いの意図を汲もうとすると同時に、自分の希望を滲ませることとなる。これらの状況の例として、いろいろなパターンのフィクション作品のネタバレ含む状況を用いて解説してくれる(言語が違うもの同士の暗黙の了解、自分から自分への対話、互いに嘘だと理解しているが表面上同意する状況、暗黙の了解を維持させることを強要すること、亡くなった人への胸の内など)。コミュニケーションとマニピュレーションは両立する。私も、意識せず「あなたのためを思って」というコミュニケーションの体をしたマニピュレーションを誰かに行うこともあるだろうな……と諦念を抱きつつ、会話という現象について、ちょっとだけ理解を深めることができた本だった。

読書:反・幸福論 / 佐伯啓思

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かつて自分の遺伝子検査を行なったとき「幸福感を感じにくいタイプ」みたいな結果が出たことがあって、「これは最大幸福を目指すよりも、最小不幸を目指す生き方の方が、多分幸せになれるな……」と言う諦念を抱くことになり、私は人生であまり幸福感を追い求めないようにしてきた。快楽は普通に快楽として感じるので、何というか、一連の流れで、このままだと幸福感=快楽だと見做してしまう恐れに気づいてしまったと言うのが本当にデカい。美食による快楽(暴飲暴食)に走ったりガチャ課金をしてアドレナリン中毒に陥ったりと、幸福感の代わりに快楽を追い求めると言うヤベー方向に走る可能性が大いにあることを自覚してしまったのである。本当に恐ろしいな!

そんなわけで、幸福感(多幸感)はあきらめ、自律による満足感を幸福とする私が、『反・幸福論』と言うタイトルの本を慰め代わりに手を取るのは必然であったのだ……たぶん……(多分)

話は変わるんだけど、軽い遊びの気持ちで遺伝子検査やった結果、「あっこれ、幸せに満ちる云々のハードルは、私にとって身体の素養の問題であって、精神論でどうにかなるもんじゃないんだな!?」と意外と人生の根幹に引っかかるところまで行き着いてしまったし、話のネタにもなるのでオススメです。なんの話?

[GeneLife Myself2.0] 自己分析遺伝子検査 ※私が遺伝子検査するときに使ったキット

反・幸福論 / 佐伯啓思

本題!

本を捲ってすぐに「ブータンは世界一幸せな国として幸福度ランキングの上位にある、これは若干古いデータだが、そう急激に順番が変わることはないと思われる」みたいな一文が目に入り、悟ってしまった。これは、完全に旬を逃した本だ…!!(ブータンは2019年前後に、幸福度ランキングの圏外まで急激に降下した)
嫌な予感がしながらいつ出たかを確認してみたら、2012年の出版だった。これはさっさと読まなかった私が一方的に悪いやつだ……。反省しながら読み進める。

以下メモ。

サンデル氏の話題(2012年から人気だっけ!?)、菅総理の最小不幸社会。アリストテレスの道徳。
何者にも攻撃されず、私的自由が満喫できるようになってから、私たちの幸福とは「(今、すでにあるものとしての)守るべきささやかな幸せ」より「実現すべき膨張する幸せ(妄想で際限なく膨らむ欲求)」へと変わった。そして、その幸せは「利益」や「権利」と不可分になってしまった。それらは人を幸せにはしない。飢えを満たすための満足が、満足をするための飢えになってしまっている。
個人的自由を求めながら、つながりや絆などのワードに目が眩んでしまうこともそうかな。
「死が常であり、生の方が異常と言える」みたいなくだりは、小説や本でちょいちょい聞くので、違和感はなかった。死生観のあたりの話も、養老孟司先生が言いそうな感じで、理解できる。死生観が、結局のところ生き方に影響してくるもんね……表裏一体!
「人並みに幸せになりたい」の人並み、これが他者との比較の中にしか生まれない、だから幸福の基準が他人基準になる、と言うのも分かる。個性とも呼ばれるような人々の「違い」、これを「不平等である」と観念をすり替えてしまうこと。福沢諭吉の「蛆虫とはいえ、人生が戯れだと知りながら、善く生きて行こうとするのは人間の誇りであり、おおよそ人間の安心法はそんなところだ」みたいな。これも分かる。

ちょっと分からなかったところ。

第二章の「国の義を守ると言う幸福の条件」と言う章まるごと良く分からなかった。ここは章のタイトル通りの内容で、第一章の「道徳」「善く生きる」から派生した「義」の題材として取られた枠だと思う。私も歴史物のコンテンツが好きで、こういったお国を守るための何とかみたいな志を持つ人物の話もよく聞いたりはするのだが、戦時中の話については如何せん私にとってはあまり実感がないことである。国を守るために個々人が一致団結し、一つの社会としてのまとまりを見せる。人間は社会的な生き物なので、充足感を与えられることではあるだろうな、そして否応なく動くことになればその歳月とともに、生き甲斐や道徳、価値観なども形成されるのであろう……ということには全く異論はないんだけど、戦後の日本人の気持ちを考えることはできても、それをベースに日本人の拠り所となるべき義のあり方とは……みたいなことになると、急によく分からなくなった。まだ私が読むには早かったかもしれない。理屈では何となくわかった、くらいに保留しておこう。と思っていたら、後ろの方で「あの大地震が起きたとき、関東の方にいたので自分には被害がなく、東日本の絶望は実感できなかった。しかし伝わってくるものがある」みたいなことを書いていて、今の私の状況やんけ……とうっかり思ってしまった。国の争いと政治と大震災の話に終始しているところも結構見受けられるので、そういったところは人を選ぶかもしれない。

急にテンションが上がったところ。

第三章で突然、柳田國男の名前が出てきた。先日気になってWikipediaでググった、なんかタピオカブームと相まった人だ……!

冒頭で完全に旬を逃したとか言っておいて、大層盛り上がってしまった。すみません、完全に今が旬の話題でした。

何かが有ると言うことは素晴らしいことだ。衣食住。娯楽。生き甲斐。友愛。豊かさ。自由。それらが有るだけで、幸福な生き心地になれる。しかし死んでいるものからすれば、生きるものが何かが有ることを求めるのは、その罪を深くしているだけとも見える。有るということのために、常に何かを犠牲にしている。生きているだけで、他の生き物は食うし殺す、奪う、そしてせめて人並みの人生で有ることを望む(底辺よりは上でありたい、底辺という概念の存在がなくては困る)。罪深いことを快楽とし、肥大していく自分だけの幸福を永劫に追い求めるだけではなく、今まさに死や憂いと隣り合わせであることに気づき、自分以外のものに祈り、感謝し、畏れ敬うことがあってもいいのではないか……みたいな、「幸福ってそこまで人生にとって重要なものじゃねーよ!」という話……ではないな……うーん上手くまとめられなかったが、私みたいな「目が悪くて幸福へのゴールが見つからないので、やむなく自分の周辺の最小不幸を目指す」タイプには興味深く読める本でした。

でも、戦争と震災と国と政治の話は、本当に多かったです。(小声)

読書:読書について / 小林秀雄

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昭和初期にご活躍された批評家・小林秀雄のことは、数学者・岡潔と対談している本が出ているということで初めて私が知った人物である。その流れで「小林秀雄対話集」を読んでいたところ、時代が昭和だし(良い悪いという意味ではなく、前提となる暗黙の了解的な時代背景が察せないという意味、だって冒頭の坂口安吾との対談、昭和23だもんよ)、一角の人物同士がバチバチに自分の物差しで遠慮なくやり合っているので解釈に時間がかかって仕方なく、もうちょっと凡人に向けた小林先生の易しい本とかない?と言う不純な動機でこの本に手を出した。この本なら、タイトルも今まで十数回くらい読んだようなやつ(読書について)だし、たぶんギリギリ理解はできるはず。一旦これで小林先生の価値観とかを薄く学んでから、また対談本に戻るか〜と考えはしているが、すでにまた今の自分に余るものに手を出している感は拭えない。

読書について / 小林秀雄

た、助かった〜〜〜!!いろんな雑誌に出していたエッセイや対談のうち、「読書や文章について」をテーマとして、比較的分かりやすい印象のテキストをまとめて出しましたみたいな本だ!さすが!需要を分かっている!

とはいえ、まだ先述の対話集に比べたらかろうじて分かる程度なのだが、これまで読書術的なジャンルを何となく歩いていた経験で半分くらいはなんとかなった。乱読のセレンディピティではないのだが、ガンガン並行して乱読してよし、これはと思う名作家を見つけたら日記の隅々まで暴くつもりで徹底して、全作品を焦らずじっくり読んで人となりを知れ、それがやがて己を知ることに繋がる、他人というのは自分を知るための鏡である、などなどの前提のお話から、印刷の普及に伴って世には書物が溢れるようになったが、そのスピードに対して人間の処理速度は追いついていない。得られる文字数がどんなに多くなろうが、いちいち目で文字を追い、自力で判断をし、納得し、批評をし、心に一世界を再現するという話がある、というくだりもあり、「確かに最近、本を読む速度と理解度はトレードオフの関係で、理解をしようと思ったら読む速度はどうしても落ちるというのを見たな」と合点がいったし、最近のトレンドと比べても的を射ているのは凄いなあと思った。これが批評の神様か〜。

また、「美を求める心」についても意見があった。絵や芸術などというものは、まず頭に入った知識で解釈して読むものではなく、ただありのままを感じることが大事である。見慣れることが大事である。美しい花を見るためには、まず沈黙に耐える必要がある。ただ美しい花を見るとき、なんだスミレか、などとすぐ言葉に変換し、頭の中で分かった気になって立ち去ってはならない。美しい花の絵を描く時のように、じっと観察する。外からの美で美しいと思わされるのではなく、ただの素朴な花であっても、観察する己の内から美を感じるようになれる。美が分かるというのは、頭の中の知識の解釈ではなく、ただ素直に感じる心なのである、と。そしてちょっと飛んで、これと同じように、文学や詩などは、まず最初に、時代背景や文学ジャンルなどの知識に惑わされるのではなく、ただ素読・暗誦せよ。みたいなくだりは、「ある意味、湯川秀樹の著書・創造的人間で見たヤツ(祖父に小さい頃から、意味もわからぬまま漢文を素読させられていたが、その経験が将来的には物理学を収める上でも役立った)だ〜〜〜!!」と妙なセレンディピティが起こり、ちょっと嬉しくなってしまった。

取り止めもない感想になってしまったが、先述の対談本と比べて本当に易しい感じで小林先生の知見を学べるのが本能に助かる、小林秀雄先生の本を読む意欲のブースターとして最適な本だった。

読書:ウラジーミル・プーチンの頭のなか / ミシェル・エルチャニノフ

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「プーチン大統領の頭の中か〜。まあロシア人が書いたからって、あまり間に受けないようにしよう!日本人のジャーナリストが安倍晋三はこういう考えをしている、という主張をみたところで、そのまま受け入れるなんてことはしないもんね!」という気持ちで読んだのだが、普通に色々なことを間に受けながら読んだので、全てにおいて話半分で聞いていただきたい。私は本を俯瞰して読むのが本当に下手。

読書:ロシア史-キエフ大公国からウクライナ侵攻まで-読書:ロシア史-キエフ大公国からウクライナ侵攻まで-

ウラジーミル・プーチンの頭のなか / ミシェル・エルチャニノフ

プーチンは祖国(ソ連時代を含める)ロシアの文化への固執を持っており、西ヨーロッパ圏の価値観に侵略されることを拒んでいる、というのが大まかな主張なのかな。

奴隷を意味するスレイブの語源となったとされるスラブ、ロシアはそのスラブ人の流れを受けるものである。この人種は、スラブ主義という思想を持ち、これは19世紀に西欧主義に反対してロシアは独自の発展をすべきという主張であるらしい。まあ、西側やイスラム側がスラブ人を奴隷として攫い大量に売り捌いたことでスラブ人=奴隷(スレイブ)の語源となったそうだし、西欧の資本主義(奴隷という商人を売って金を儲ける)vs 共産主義→冷戦での敗北、と発展していくことを考えれば、東スラブ(ロシア、ウクライナ、ベラルーシ)の文化を西欧側に染められるのを拒否するのは当然……ということでいいのかな?そのため、同じ東スラブ人であるウクライナが西洋の価値観に感化されることを容赦できなかった、みたいな……。

そう考えると、何を拒否しようとしているのか、薄ら分かる気はする。
私は資本主義に染まりきった国に生まれたから、特に違和感なく、今の世界(と認識していた西欧中心の資本主義と日米の価値観)がデフォルト(正しい状態)だと感じているが、冷戦でソ連の共産主義の敗北が決定的になったのって1989年、つまり割と最近の話になるもんな。その最中から生きてきたプーチンは、共産主義には否定的だとは言え、だからと言って自国の文化や価値観が、ヨーロッパ的な価値観に全て上書きされていいものだとは考えていない。そもそも、ロシアは他国を侵略することもあったが、侵略されることもまた多い歴史を持つ国だった。

モンゴルがロシアを侵略・支配した約250年で有名な「タタールのくびき」、ローマ教皇の命令により十字軍として侵略してくるスウェーデン軍およびドイツ騎士団、ツァーリの地位を狙ったポーランド軍によるモスクワ占拠、同じくモスクワを狙ったナポレオンの大遠征(冬将軍で有名なやつね)をロシアは「祖国戦争」と呼び、ドイツ軍の奇襲・バルバロッサ作戦から始まる独ソ戦を「大祖国戦争」と呼ぶ等、情報統制などもあるが、「ロシア征服を目的とした戦争を他国からふっかけられて祖国の防衛戦を強いられる我々」という意識があるっぽい。ペスコフ大統領報道官が「ロシアは多くの防衛戦を経験したため戦争と発音することすら嫌う。他国を攻撃したことも歴史上一度もない」と発言するほど、他国からの侵略に抵抗する『被害者』としてのポジションが、逆に祖国の正当性という、大きな肯定感を生んでいるのかなと思える。とすると、西欧諸国を「我が国に多種多様な手段(思想・経済・戦争・文化)で卑劣な侵略してくる連中」と捉えるのも致し方ない、というのは、何となく…たぶん…分かった!(分からないことを分からないものとしてそのまま保留しておく認知負荷に耐えられないので、いったん分かったことにした)

まあ言われてみれば、「みんな明るく世界平和!資本主義で貧富の差が激しく生まれるかもしれないけど、みんなで頑張ってこ!」という思想を世界で共有していくことは、それこそ多様性を損なうものであるかもしれないなあ。ヨーロッパ圏の価値観を拒否するものも含めて世界のシステムだとみなす考えも、各々に必要であるのかもしれない。とはいえ、私個人はポルポトみたいな原始共産主義は受け入れがたく感じるので、その辺の線引きをどうするのかについては、本当に、これまで環境に持たされてきた物差しによるとしか言いようがない気もする。

プーチンは、インターネットやらなんやらも快く思ってはおらず、これからのロシアを担う若い人がネットを介して西欧的なグローバル化に染められることも危惧している。プーチンが大統領になる前に所属していたことで有名なKGBは、国内に流通している思想を探る部署でもあった。そこでのスパイ活動は、人と話し、そのいうことを理解するという、徹底した人間観察を要求されるものである。プーチンはソ連の共産党の家に生まれたが、自身は共産主義には懐疑的だったそう。哲学と同じく、理想は理想として美しいが、現実的では無いとする現実主義の価値観を持ちつつも、他国に狂わされていく祖国の人々を多く見たのだろう。崩壊してゆくソ連から、彼が継承したのは、共産主義ではなく、祖国への愛だった、と筆者は見ている。彼が求めるのは、ロシアの人々が、他国に惑わされることなく、自らの思想を自らで持ち、自らの意志で自らを管理できる人。

旧知の友人たちから齎される情報のみを信用し、既存の哲学・主張を利用しながら、ヨーロッパにはヨーロッパ向きの言葉を、アジアにはアジア向きの態度を使い分けて、柔道のように柔よく剛を制し、ソ連が崩壊した際新しいロシアという枠組みから外されてしまった2500万人を取り戻すべく、愛する祖国のために、動いている…のか?ちょっとこの辺まとめ切れていない。まあどうしても現状は複雑になるし、色んな矛盾を抱えざるを得ない都合上、各々の主義主張に綺麗に筋を通せるものばかりではないのだが、この辺りのややこしさが、世界情勢を把握する気を無くす膨大な理由の一つな気もする。人間は、分からないものは自分の尺度で単純化してでも分かった気になるか、負荷を恐れて忌避するからな……!そもそも何が正しいのかも分からないし……。ウーン(哲学)

単純にまとめるのは良くないことだが、結論としては、プーチンの中では、『偉大なる祖国ロシア』のアイデンティティが、いつの間にか『ヨーロッパの悪き陰謀に立ち向かう』ことになっているのかなあ、と思ったりもした。偉大なるロシアの一部でありながら(主観)、ロシアのアイデンティティを揺るがし、ヨーロッパ側の思想に飲み込まれそうになっているウクライナを取り戻すための戦い……となるのだろうか。
あとやっぱり、ソ連を生き抜いてきたプーチンの周辺は『ロシアはヨーロッパに不当に舐められてる、侮辱されている、偉大なロシアを顕示することは正当性を持ったことである』という意識がありそう。ただ、一般のロシア人は、西欧との対立に疲れているっぽいようなことも書いてあったな。

後半は、著名な文学者たちの哲学的な思想をどのように権威づけに使ってきたかや、これからのロシアという国の在り方についての考察があり、面白かったのだが、ちょっと私の諸々の知識が無さすぎてまとめ切れなかった。

また、この本自体は2015年にフランスで出て評判が良かったものを、昨今のウクライナ情勢を受けて加筆修正して邦訳したものらしい。よって、ウクライナとNATO周りのページは、終わりの方に少し出てくる程度で、その話題を期待して読んだわけではなかったのだが、ロシア・プーチン視点から見た危惧などの認識を少なからず改められたので、ためになったと思う。

以下、面白かったところメモ。

・「彼は哲学というものを、多くのロシア人と同じように「東洋の知恵的」だと思っていた」という一文で、「多くのロシア人、第三のローマを自認する首都があるのに、ギリシャの哲学者は含めないとかある!?!?!」と内心草を生やしてしまった。その後、「プラトンのような、哲学者が統治する国は、現実的ではない」、要するに哲学者が語るような、共産主義が掲げるような、『理想』ではなく現実路線でやりたかったというラインが出て反省した。
・ノビチョク…!ミストチャンネルで見たぞ!急に知ってる事件が出てきて思い出したのだが、そういやこの本を最初見たときに、「プーチンの政敵抹殺の数々的な要素がいっぱい出てくるのかな……」と思っていたのだが、実際はそんなになかったな。ロシアには著者の親族がおるからおいそれと書けんとかあるのかな。
・やっぱロシアは個人の英雄を崇拝する傾向にあるんだな、ツァーリズムもその一環なのかな。
・『文明が生命を持っていて、それぞれの文明は固有の遺伝子のコードを持っている』とする考え方、初めて聞いたので、新鮮だった。
・最後に出てきた、「プーチンは三度目の祖国戦争を体験したいのかもしれない(要約)」というくだり。ロシアの持つ個人崇拝(英雄)って、戦争なしには、文脈的に成立しにくいもののように思えたので、そういうことあるかもとは感じてしまった。戦争になった時、人々は祖国を守るために命を賭け、財産を捧げ、一致団結する。戦争こそが、個人を全体へ奉仕する存在にする。戦争は人々の倫理観を高め、英雄にするのだみたいな理屈があったと思うが(うろ覚え)、これも1世紀前ではメジャーな思想っぽいなあと……。1世紀前ったって、最近だもんなあ。自己犠牲的な英雄は、戦争にでもならんと、出てこないよなあ、とちょっと色々考えさせられた。

と言ったところで感想は以上です。ようやく読み終わった。俺はポルトガル史に戻らせてもらう!

読書:「便利」は人を不幸にする / 佐倉統

水色チェックマークのあるタイトル作品のネタバレを含みます

本のタイトルを見た瞬間、多分こういうことを言いたい本なのでは?という仮説を立ててみた。

▼なぜ便利は人を不幸にすると言えるのか?

  • 不便さから工夫が生じると思えば、すでに便利であることはそれ以上の工夫の余地をなくすし、容易に扱えることは、すなわち理解も容易なものだという錯覚を生むから?(インフラや水道水の蛇口の仕組みなんか知らなくても、水は飲める世の中である)
  • 選択肢が多ければ多いほど、人は比較・検討に認知負荷がかかるのでは?(うろ覚え『選択の化学』)
  • 不便であれば、本当に必要なことにしかフォーカスができず、リソースの分配について明確な優先順位がつけられる。便利さは、あらゆる難易度を「簡単」にまで平すので、便利さが溢れると、簡単なものが溢れて、何を優先すべきかはっきりしにくい?とはいえ、不便すぎて生活水汲むのに半日かかる生活は嫌だな……。最終的に労働時間は変わってなさそうだから、生きるってそんなもんなのかもしれないが。

大まかに、こんなところかな。
それじゃあ実際に本を読んでみるか、レッツゴー鎌倉!

「便利」は人を不幸にする / 佐倉統

しまった、この本……読んだことがある……!!(P16めで強烈な既視感)
読んだ覚えがあるせいか、ちょっとパラ読みになってしまった。以下、本の内容と私の感想が入り混じったメモ。

・きりのない欲望。終わりのない不幸。どの時代、どの場所にいようと、結局のところ、人間のあらゆる悩みの総量は同じなのである、という仮説があるそうな。ここを読んで、「これ聞いたことある!それで、数年前の私は納得した覚えがある!この本読んだことあるな!?」と気づいた。ちなみに今は、数年前よりも悩みが減った(悩みの質も良い方へ変わった)という体感があるので、「え〜そうか〜?」と太々しく言える体になってしまった。

・最近の家電はすごい。知識のない人でも簡単に扱えることができ、スイッチひとつで飯が作れるし、掃除機も動く。何もしなくても冷蔵庫は冷えている。それらを動かす電気について意識することも特にない。認知負荷が全くかからないまま、ただ無意識に便利さを享受できるということは、とても素晴らしいことだ。しかし、便利に扱えるせいで意識に登らず、なんとなく知っているというだけで十分、理解をしようとまでは思わない、ということもある。それが大きなデメリットになることはあった。東日本大震災、原発などの災害への認識、それらへ対応する専門家への対応などだ。便利さを支えている技術が理解の範囲を超えているものだという認識は、ある程度持つ必要があるのではないか。

・個人ごとに独自の価値観を持つとはいうが、今は「便利」「快適」「安い」「速い」という前提が当たり前になってきているのでは?世界が多様化しているとは思うが、根っこのところはみんな同じになりつつあるのかも。(葉っぱの生存戦略)

・便利さで生まれた余剰時間で人は自由を得られるが、便利すぎると単純に人から「動き」を奪うものかもしれない。寝っ転がってスマホいじってばっかりになってしまうだとか。人も動物なので、単純に動くこと・思考を働かせること、この辺りはできた方がいいだろうと思うし、なんかいい感じにフュージョンできるような新しい便利さの概念がもっと生まれないものかな。

・アー!!!!伊藤計劃のハーモニーの話してる!!!!!!そういえば私この本で伊藤計劃を知ったような気もする!!!!!!!!!数年越しの伏線を回収してしまった。数年前の私へ、その小説は今の私が読んでおいたから、感謝してくれよな。

パーフェクトハーモニーってまだ通じるのかなパーフェクトハーモニーってまだ通じるのかな

メモは以上。事前に考えた本の内容の想定とは、まあまあ一致していて、まあまあ外れたと言ったところ。
私の総論としては、単純に人間の人格というかモラルというか、そういうものが今の技術に追いついとらんから、運が悪いと不幸になっちゃうことが多いのでは。じゃあどうするか、という課題が当然セットになってくるわけだが、どうしような…。なんだか雑なまとめになってしまった。