かつて自分の遺伝子検査を行なったとき「幸福感を感じにくいタイプ」みたいな結果が出たことがあって、「これは最大幸福を目指すよりも、最小不幸を目指す生き方の方が、多分幸せになれるな……」と言う諦念を抱くことになり、私は人生であまり幸福感を追い求めないようにしてきた。快楽は普通に快楽として感じるので、何というか、一連の流れで、このままだと幸福感=快楽だと見做してしまう恐れに気づいてしまったと言うのが本当にデカい。美食による快楽(暴飲暴食)に走ったりガチャ課金をしてアドレナリン中毒に陥ったりと、幸福感の代わりに快楽を追い求めると言うヤベー方向に走る可能性が大いにあることを自覚してしまったのである。本当に恐ろしいな!
そんなわけで、幸福感(多幸感)はあきらめ、自律による満足感を幸福とする私が、『反・幸福論』と言うタイトルの本を慰め代わりに手を取るのは必然であったのだ……たぶん……(多分)
話は変わるんだけど、軽い遊びの気持ちで遺伝子検査やった結果、「あっこれ、幸せに満ちる云々のハードルは、私にとって身体の素養の問題であって、精神論でどうにかなるもんじゃないんだな!?」と意外と人生の根幹に引っかかるところまで行き着いてしまったし、話のネタにもなるのでオススメです。なんの話?
[GeneLife Myself2.0] 自己分析遺伝子検査 ※私が遺伝子検査するときに使ったキット
本題!
本を捲ってすぐに「ブータンは世界一幸せな国として幸福度ランキングの上位にある、これは若干古いデータだが、そう急激に順番が変わることはないと思われる」みたいな一文が目に入り、悟ってしまった。これは、完全に旬を逃した本だ…!!(ブータンは2019年前後に、幸福度ランキングの圏外まで急激に降下した)
嫌な予感がしながらいつ出たかを確認してみたら、2012年の出版だった。これはさっさと読まなかった私が一方的に悪いやつだ……。反省しながら読み進める。
以下メモ。
サンデル氏の話題(2012年から人気だっけ!?)、菅総理の最小不幸社会。アリストテレスの道徳。
何者にも攻撃されず、私的自由が満喫できるようになってから、私たちの幸福とは「(今、すでにあるものとしての)守るべきささやかな幸せ」より「実現すべき膨張する幸せ(妄想で際限なく膨らむ欲求)」へと変わった。そして、その幸せは「利益」や「権利」と不可分になってしまった。それらは人を幸せにはしない。飢えを満たすための満足が、満足をするための飢えになってしまっている。
個人的自由を求めながら、つながりや絆などのワードに目が眩んでしまうこともそうかな。
「死が常であり、生の方が異常と言える」みたいなくだりは、小説や本でちょいちょい聞くので、違和感はなかった。死生観のあたりの話も、養老孟司先生が言いそうな感じで、理解できる。死生観が、結局のところ生き方に影響してくるもんね……表裏一体!
「人並みに幸せになりたい」の人並み、これが他者との比較の中にしか生まれない、だから幸福の基準が他人基準になる、と言うのも分かる。個性とも呼ばれるような人々の「違い」、これを「不平等である」と観念をすり替えてしまうこと。福沢諭吉の「蛆虫とはいえ、人生が戯れだと知りながら、善く生きて行こうとするのは人間の誇りであり、おおよそ人間の安心法はそんなところだ」みたいな。これも分かる。
ちょっと分からなかったところ。
第二章の「国の義を守ると言う幸福の条件」と言う章まるごと良く分からなかった。ここは章のタイトル通りの内容で、第一章の「道徳」「善く生きる」から派生した「義」の題材として取られた枠だと思う。私も歴史物のコンテンツが好きで、こういったお国を守るための何とかみたいな志を持つ人物の話もよく聞いたりはするのだが、戦時中の話については如何せん私にとってはあまり実感がないことである。国を守るために個々人が一致団結し、一つの社会としてのまとまりを見せる。人間は社会的な生き物なので、充足感を与えられることではあるだろうな、そして否応なく動くことになればその歳月とともに、生き甲斐や道徳、価値観なども形成されるのであろう……ということには全く異論はないんだけど、戦後の日本人の気持ちを考えることはできても、それをベースに日本人の拠り所となるべき義のあり方とは……みたいなことになると、急によく分からなくなった。まだ私が読むには早かったかもしれない。理屈では何となくわかった、くらいに保留しておこう。と思っていたら、後ろの方で「あの大地震が起きたとき、関東の方にいたので自分には被害がなく、東日本の絶望は実感できなかった。しかし伝わってくるものがある」みたいなことを書いていて、今の私の状況やんけ……とうっかり思ってしまった。国の争いと政治と大震災の話に終始しているところも結構見受けられるので、そういったところは人を選ぶかもしれない。
急にテンションが上がったところ。
第三章で突然、柳田國男の名前が出てきた。先日気になってWikipediaでググった、なんかタピオカブームと相まった人だ……!
冒頭で完全に旬を逃したとか言っておいて、大層盛り上がってしまった。すみません、完全に今が旬の話題でした。
何かが有ると言うことは素晴らしいことだ。衣食住。娯楽。生き甲斐。友愛。豊かさ。自由。それらが有るだけで、幸福な生き心地になれる。しかし死んでいるものからすれば、生きるものが何かが有ることを求めるのは、その罪を深くしているだけとも見える。有るということのために、常に何かを犠牲にしている。生きているだけで、他の生き物は食うし殺す、奪う、そしてせめて人並みの人生で有ることを望む(底辺よりは上でありたい、底辺という概念の存在がなくては困る)。罪深いことを快楽とし、肥大していく自分だけの幸福を永劫に追い求めるだけではなく、今まさに死や憂いと隣り合わせであることに気づき、自分以外のものに祈り、感謝し、畏れ敬うことがあってもいいのではないか……みたいな、「幸福ってそこまで人生にとって重要なものじゃねーよ!」という話……ではないな……うーん上手くまとめられなかったが、私みたいな「目が悪くて幸福へのゴールが見つからないので、やむなく自分の周辺の最小不幸を目指す」タイプには興味深く読める本でした。
でも、戦争と震災と国と政治の話は、本当に多かったです。(小声)