先日読んだ『「脳」整理法』の著者の方かな。読了。
「サンタクロースっていると思う?」という女の子の話を偶然耳にした著者は、これを重要な問いだと感じた。クリスマスの夜に子供にプレゼントを配るサンタクロースというのは、頭の中にしかいない架空の存在で、現実には存在しない。実在性を証明しようとしてそれらしい格好の髭のおじいさんを連れてきたとしても、それはサンタクロースではなくそういう格好をした人間だというだけだ。しかし、きっと子供も、どこかでぼんやりと「サンタクロースは現実には存在しない」ということに気付きつつありながらも、その頭の中の存在ーー仮想を切実に求める。現実と仮想は、お互いどのような意味を持つのだろうか。というのが序章だった。
著書の中にあった説明だが、日本人が蛍や桜という言葉を聞けば、文化によって連想されるイメージ(仮想)の質を決定している。この仮想は、決して現実のものではないのに、なぜ脳は意識に留め置くのか?というのは私も気になった。言われてみれば、真・善・美、いずれも現実には存在しない。個人による主観的な真実や美、善きことはあるかもしれないが、絶対の法則なんてものは世にはない。それがあるのは、個々の頭の中にだけだ。文化的背景を持つ各々の人間が各々の解釈で作られた仮想世界を持つ。数、愛、平和、天国、自由などもう。
また、仮想というのは、予想のような一面も持つ。例えば、「明日は友達とずっと追っているシリーズの映画を見に行くけど、多分見終わった後、4時間くらいはファミレスで喋り続けるんだろうな」みたいな期待を空想しながら眠りについた人間がいるする。これもまた仮想の一つだ。しかし、翌日は急に大雨が来て予定自体がキャンセルになった時、昨日の晩に抱いた仮想は、現実の前に砕け散って消え失せる。この場合は、現実が邪魔になっている。現実に即していればいるほど、仮想は維持しにくい。逆に言えば、現実に対応していない仮想は強度が高い。神とかもそうかもしれない。妄想と割り切った妄想だったりもそうかな。二次元の推しのことでフワフワ妄想していたとしても、現実に砕かれることは、まあ……ない、か?作中で死ぬ可能性もあるのでなんとも言えないが、まあ死んだとしても「二次元のことやからな、私は好きな展開の夢を見るんや」と気持ちが極まっているなら関係ないかも。なんの話?
第4章。仮想と現実の違い。目の前にコップを掴むことで、視覚と触覚の入力情報が一致する。飲めば喉が潤う感じがする。この複数の経路から得られる確固とした作用、現実感が現実を支えており、逆に言えば、仮想はそのような感覚の一致が成立しないもの。現実は確固とした基盤があるが、仮想にはそれがない。しかし、仮想には基盤がないからこそ自由がある。仮想には重い楔はない。なるほど。
第5章。養老孟司先生の話だァー!ゲームのみならず、ファンタジーものとか転生物とかのラノベも読まれるって話聞いたことあります。どこ情報だよ。多分養老先生の著書のどっかで見かけた話だとは思うが……(漫画とか想像力とかの話から来てたような、『マンガをもっと読みなさい』という対談本かな)。ゲームも仮想。それはそう。でも、ゲームの持つ世界観?なんだろう、仮想としての存在の強度は高く思えるから安心できるし、新しい刺激に没入しやすいのかもしれないなあ。
最後の方にある、仮想の星空は、現実の星空よりも私の魂に近いかもしれない何かを感じる、という一文が良かった。
第6章。他者という仮想。他人と同じ気持ちになんてなれるはずもない。各々のクオリアは違う。しかし、それにもかかわらず、他人の気持ちが分かったように思えることはある。これは一体なんなのか?友人の心が分かったと思った瞬間、「分かったことにした」瞬間、そのわかったこと以外を不可知の領域に追いやってしまうことはないか。しかし、それでも友人の気持ちがわかった、自分のこともわかってもらえた、分かり合えたという幻想を互いに共有することはできる。全てが脳内現象にもかかわらず、身体の外にあるものを感じることができると感じている。他者の心は絶対不可視だが、それでも繋がりたいと思ったとき、繋がりあえるという仮想を生み出す。現実ではなくとも、そのようなクオリアを互いに感じていると思れば良い、みたいな感じだろうか?
第7章、第8章ときて第9章、総括。現実は確実な存在であるが、その中に生きる私たちは確実なものではない。認識するものは意識に左右されるし、寝ている時は意識の認識もない。仮に人に魂があるとするならば、この現実と同じくらい仮想を必要としている、ということでいいのかな。ちょっと後半はあまり頭で咀嚼ができなかったが(読んだタイミングが悪かったかも)、良い本でした。