朝からポツポツと雨が降っていたので、「じゃあ今日は外に出かけず本を読むか、晴耕雨読だな」と思ったところで、急に「晴耕雨読ってどこから湧いた言葉だ?中国か?」と気になり始める。軽くググってみたところ、語源・由来不明、出典不明とのことで不思議な感じがしたし、ググった先で生き継いた『レファレンス協同データベース』なる、国立国会図書館が全国の図書館等と協同で構築する調べ物のための検索サービス(質問・回答サービス含む)があることにも驚いた。インターネットがある世の中でよかった。
脳科学者で有名な先生なのかな?ここ数年、脳によくないとは思いながらマルチタスク作業をすることが癖になってしまっていて、どげんかせんといかんと思い、ちょいちょいと脳関係の本を再読し始めた。まあそんなことで頭は良くなったりはしないのだが。この先生の本は、目次をパラパラと見ていた時に気になって手に取った。
知識について、ひとまず次の二つに分けて考えることができる。「世界知」という科学を根拠にした己の世界観を構成する知識と、「生活知」という生きていく上で自分個人に寄り添った知恵(母語やコミュニケーションなど)である。この世界知を生活知に寄せていくことが大事で、また、この二つの知をつなげていくということに生かせるのが脳である。世界知は、自分がいなくても成立している世界を見るためのアートであり、神の視点である。
また、何かが起こる時にも、次の通りに分けて考えることができる。「ランダム」、「規則性」、そしてその中間点に位置する「偶有性」。規則性は人に歓びの感情をもたらす(科学、天体の運行、数式の美、秩序、法律など)。ランダムについては人は無関心になるが、ランダムの中にも規則性を見出そうとする癖がある。例えば宝くじを買うとき、人はそこに何らかの規則性を見出そうとするが(ラッキーナンバー6がよく出る、大安の日に買う、日頃の行いを正す等)、そこには正しい規則性はなく、結果は全くのランダムである。占いについても同じことが言える。この間にある偶有性は……なんだろう、競馬とかだろうか。規則性があるようでもあり、全くの偶然・意外性に左右されるようでもある。この偶有性を脳は栄養にする、みたいなことを主張されている。この辺、ちょっと分からなかったが、偶有性のある新鮮な知識を蓄積して、それを脳が整理することで、創造的なものを生み出すことができる、みたいなことだろうか……?人は、規則性とも言える世界知を、偶有性に、生活知に寄せていくことで、脳の中で何かを創造し得る、とか。
いや、多分ちゃんと普通に読めば筋が通っているのだとは思うが、私の中で「この先生の手持ちのキーワードは、偶有性・クオリアだと思うけど、そうすると本のタイトルの「脳」整理法ってなんだ…?企画書で提示されたタイトルに強引に著者の持つ手札を絡めているとか?」と話が繋がっておらず、どうでもいいことばかりを考えてしまっている。私の脳の整理がされとらんのよ。これはシンプルに、私が脳に対して今現在そこまで興味がないからなんだろうな……。
逆にこの本で興味が湧いたのはP90の「脳は刺激を欲し、外界からの刺激を完全に遮断されると、勝手に幻覚を生み出して刺激を得る」みたいなくだり。なんか、感覚遮断タンクとかいう装置に人間を突っ込んで遮断した結果、そういう結果が出たらしい。この実験の被験者にファインマンの名前が上がっているので、これはまあ信じて…いいかな。でもそうすると、人間、夢を見る仕組みってこういうことなんじゃないか?と連想で妄想できたりした。つまり、寝ている時も脳は動いているのだが、身体の感覚は遮断されている。だから脳が勝手に刺激を作り出そうとして、幻覚を見る、みたいな。瞑想を極めると幻覚を見たり恍惚感を得たりするのもそう、とかどう!?私の瞬発的なひらめきにしては、そこそこ面白い仮説では!?(どうじゃないが)