前回の続き。第二章の途中から第四章の途中まで(102P)。話は興味深いんだけど、やや難解で、。
複数のモジュールから成り立っているとされる心理についてのわかりやすい例えとして、プログラマーが複数のプログラム言語を習得していることが挙げられている。一つの言語では、目標に沿った最適な答えを出せないことがある、というもの。複数のアプローチを手段として持った上で、目標に対して最適と思われる手段でシステム構成を行うことは有効である。だから、例えばザッハトルテを見て「お腹すいた」「私の好物!」「今甘いもの食べたい」「脳が疲れているから甘いものがおいしく見えるんだよな」「チョコレートだ〜」「と言ってもダイエットしているし…」「これ何キロカロリー?」「今日だけなら問題ないのでは?」「明日からダイエットするができるなら今こんな状況になるはずないだろ」みたいな心のモジュールが一斉に立ち上がり、互いで競合したり、補強しあったりする。しかし、最終的には、これら複数のモジュールのボリュームが各自調整され、声の大きいモジュールの主張が通ったような行動として一つの結果が導き出される……という解釈でいいのかな?
本のタイトルからするに、人は一つの主張のみを持っているわけではない。善人は善しかできないのではなく、悪意も心の底にはありながら、善の声に耳を貸すものである。みたいなことだろうか。漫画でよくある、悩む己にうちなる天使と悪魔が交互に語りかけて……みたいな。
こういうことがあるから、人間は己の無知を利用したりできるのかなと思った。この本で挙げられている例えは、会社の金庫の暗証番号を知らなければ、金庫を不法に開けずに済むというもの。自分で何か他にも無知を利用する例を例えられないか考えてみたが、「デザイナーには、DB設計書を見せないなど、その人の職場上のポジションでは知らなくてもいいような情報は渡さないことが役割の明確化・作業の効率化につながる」みたいなことかなと思った。無関係な資料を与えられることで発生するであろう心境のモジュール(不快・もしかして役に立つのか?・わからん・相手は何をしたいの?・でも見た方がいいだろうし…・めんどくせえな)は無い方が、良い方向に働くだろう。