一昨日の続きから一気に読了。
ショーペンハウアーの『読書について』的な、本ばっか読んでると自分の頭で考えなくなるぞ!というような啓蒙。これはまあ本当にそう。他人の考えが書かれた本を読むことは、経験や知識にはなるが、自分の血肉にするには時間や思考が必要で、それをしないうちに次々他の本に手を出しちゃう悪癖持ちのことだからな。私のことだが?
金と知識は多ければ多いほどよい、だから溜め込む、というのは合理的ではあるが、自分の器のスケールを過信すると頭の中がゴミ屋敷になるってことだろうな。知識があれば思考で苦労することは減るが(知識があれば正解がすぐ解明するため)、思考する力は衰えゆく。なるほどなあ。電卓があれば計算は速くなるが、自力で4×23を暗算するみたいな能力は衰える。PCを使えば難しい漢字が簡単に出力できるが、漢字は書けなくなる、みたいなもんか。
あとは空腹時は頭がフル回転するよ、昼寝は有効だよ、物事は集中しっぱなしではなくて休み休み続けろ、おしゃべりはしろ、風通しをよくしろ、かな。この先生、メモ反対派だ!と思ったページもあったが、メモ=丸写しはするなよ、全部が平坦になって何が大事か分からんくなるからな、それをするくらいならメモせず話はしっかり聞いてろ、みたいな真っ当なことを言っていた。著者が大学の先生だった時代に、生徒がノートを取るのに集中してしまって、話のなにが大事なのか理解が足りないみたいな結果を多々目の当たりにしたんだろうな。
また、「夢中や集中とは、それ以外の他のことは忘れている状態」というのはとてもしっくりきた。何かに集中したい、夢中になりたい、というのはそれ一つに没頭したい(それ以外を忘れたい)、すごく納得ができる。
時間的な距離、空間的な距離は、遠ければ遠いほど、目障りなものは全て距離の消去作用によって捨てられる。遠い過去は美しく、遠い山は美しい。なるほど。
とても面白い本だった。いかにもつまらなさそうな装丁だったので(失礼)、外山滋比古先生のお名前がなければ手に取ることはなかっただろう。やっぱ名前をなんとなく覚えておく(そして覚えておくように仕向ける広告)というのは有用なんだな。