タイトルを見て、「ほーん?大学にお勤めの学者の先生がそうおっしゃるなら」と何も考えずに手を取って読んでみた。
まず最初に、第一印象が「ビジネス書みたいな目次しとんな」だったし、著者が主催している哲学カフェとやらの話は「あっ、まさかセミナーに人を集める系のやつ!?」と焦りを感じたし、古今東西において哲学者はみんな話し上手だった!あの有名な哲学者も、この人も!と言う論調に対しては「それは……いわゆる生存バイアスとか言うやつなのでは……」と疑心暗鬼に陥った。相手にわかりやすく例え話をせよと言う下りについては「例え話多用してくるタイプの人間と話していて、その例えわかりやすい!って思ったこと記憶にない」と言う感想が出てしまうし、仕事やプレゼンで使える哲学テクニック!と言う章については「私と解釈が違う……」と悩んだ挙句、読み飛ばしてしまった。大学で准教授をされる前は商社マンだったと言う経験をふんだんに活かして執筆をされていることは伝わってくるが、この本のタイトルを見て知りたくなったのはそういう情報じゃないんだよなあ……と言うズレを常に感じていた。なんだろう、話の中身がつまらないのはあなたの考えがないからだ、みたいな本かと思っていたら、プレゼンやコミュニケーションにはこの哲学を武器として使うテクニックがあります!と言うビジネス書だったというか。最後はそのズレが楽しくなってしまったが、かといって何かが記憶に残るタイプの本でもなかったかも。
でも、章のテーマに沿った哲学の豆知識みたいなのは面白かったな。「ヴィトケンシュタインは、コミュニケーションとは、実は相手の言葉の意味を解釈するゲームのようなものといいます」「相手が話す文脈は、対話している相手の人生そのものとも言える」とか。そう言うところは、ふむふむと頷ける本でした。
小学校の国語の教科書ってそういやどんなことを教えているんだっけ〜多分これを読めば教養の基礎がなんたるかが解るだろう、と安易に思って手に取ったはず。前書きの理念の段階で「現行の国語の教科書は古典にいたしむ基礎を築く意欲に欠けている。言語空間が狭まって情緒が貧困になり、それが倫理性の低下をも招き寄せている!」みたいな、だいぶ主張が強い文章だったので、やや不安になりつつページをめくった。そういえば、タイトルに英才を育てるための云々って書いてあったな。大丈夫か?大丈夫そうじゃないな。でもまあ、確かに「漢字は児童にとって難しいものだ・負担をかけているという配慮で作成された現行の国語の教科書はどうなのか?」と言う主張は一理あるとは思う。私も「かっこうのがっこう」みたいな一文は「カッコウの学校」みたいな書き方してほしいと思うもんな。とか思いつつ、パラパラ眺めてみた。
高野辰之の「春が来た」。日本古謡の「さくら」。浦島太郎の物語。論語の「学びて時にこれを習う〜」。童謡の「うれしいひなまつり」。「あいうえおの歌」、「春のうららの〜」、平家物語「祇園精舎」。「春眠暁を覚えず」。「春はあけぼの」。ファーブル昆虫期。ヘレン・ケラー。あおによし。「奥の細道」。うんうん、どれも日本人には馴染みのあるやつだな。
逆に、旧誓約書の「ヨセフの夢解き」、ギリシャ神話の「テセウスの冒険」が出たあたりは、オタクだからなんとなく知っている話ではあるが学校で習った覚えはないかも…!この本は副読書だから実際のところはわからんが、今の子は習う機会があったりするんだ?と新鮮さを感じた。
めちゃくちゃ首を傾げたのは「良寛さん」。紹介されている「お父さんの仕事はお兄さんが継ぐことになっていたので、幼い身で近くの寺に弟子入りすることになりました」と言う一文で、エ!?そんな生い立ちだっけ良寛!?!?良寛は名主の跡取りだったけど、性に合わない仕事の途中で全てを投げ打ち、両親の反対に抗って寺に入ったと記憶しているが……!?と脳内に駆け巡る良寛情報。い、いいんじゃないか!?本当のことを教えても!嘘の情報を教えると信頼含め後々いろんなことに手間取るぞ……!そもそも子供の真の力をナメちゃダメ、ちゃんと難しいことも考えさせろ、それが成長・教育というものだみたいな主張の本じゃなかった!?と一瞬めちゃくちゃこの本の意義について考えてしまった。そして、その後に出てくるこの本の偉人たちのエピソードについて全て疑いの目を向けるようになってしまった。だ、大丈夫か?先程の旧誓約書もギリシャ神話も、フワッとした知識しかないから正しいか分からないんだけど、適当な解釈しとらんか?
やっぱいきなり副読本とか読んでる場合じゃなくて、ほんとの現行の国語の教科書読んでからが正しい読み方だったかもしれん。まあ、色々思うことはあるけれど、日本の基礎教養的なものを再確認できたのは面白かったな。教科書ちゃんと残しておくんだったなあ。