「2022年」の記事一覧

料理は器に綺麗に盛った方がより美味しく感じる理論

水色チェックマークのあるタイトル作品のネタバレを含みます

生命倫理のレッスン-人体改造はどこまで許されるのか?- / 小林亜津子

10代向けのシリーズ・ちくまQブックスから、「人体改造はどこまで許されるのか?」という生命倫理について書かれた本。この本では、テーマとして「美容整形」「スポーツ選手のドーピング」「頭を良くするスマートドラッグ」について触れている。とりあえず先に、このテーマに対する自分なりの意見を簡単にまとめてみた。

「美容整形」…医療行為を超えた、自分をより良くするための改造手術という認識。100%本人の意志で行う分にはアリでは?と思ったけれど、自分の意志が100%なんてことないもんなあ。とはいえ、ドーピングやスマートドラッグに比べれば、忌避感はそれほど無い。歯列矯正も美容整形の一種だからかな。理屈としては問題なさそう。ただ、人間は社会の中で生きているので、周囲の人間の雰囲気次第で大きな齟齬が発生しそう。私個人の倫理的にはOKの部類になるな。美容整形、人間改造の一環として、遺伝子デザインの改造まで行えるようになったら、それはそれでまた考えます。

「スポーツ選手のドーピング」…これはNGの部類かなあ。スポーツは本人の努力は前提として、そのほかに遺伝子や環境、最新知識と金が物を言う世界だとは思うが、健康を過度に脅かすものは法律なりルールなりで規制されているので、それに違反するのは明確にNGでは?ルールに違反することが許容される社会になると人間社会そのものが成り立たないだろ。ただ、どこから「OKなドーピング」になるかは私も曖昧だなあ。カフェインくらいは許してもいいのでは……と言う気持ちもある。カフェインは明示されたルールには違反していないだろうから。しかしそのままだと明示されていない薬とかも後発で出てきそうだし、これがOKなら開発されてしまうし、人間の倫理観で歯止めをかけなくちゃなと慎重にならざるを得ないところだから、ひっくるめてNG判断に寄るのかも。ただ、世間の雰囲気とかが許していそうな範囲のものは、つられて「これは常識的にOKっしょ、コーヒー飲んだくらいなら」と判断をしてしまうと思う。(カフェインを受け付けない体質の人に対して不平等では?って言われたらめんどくせえな…じゃあ一律禁止にします?ってなるかもしれん、それが昨日日記にメモした『「人の得が許せない」みんな仲良く共倒れ「スパイト行動」』と言うものに関わってくるかも)

「頭を良くするスマートドラッグ」…スポーツ選手のドーピングと一緒。

今現在はこんな認識かな。と言うことで、以下は、本を読んで擦り合わせた感想。

「(整形するのは)本人の自由でしょ?」と言う言葉は、著書の中で指摘のとおり、いろんな問題を抱えているかと思う。人は社会の許容の中で生きており、全てが個人の自由として許されるわけではない。もちろん心の中で何を思うかは自由だが、アウトプットするには社会のルールや常識に則っている必要がある(本人の自由で犯罪起こしていいわけがない)。自分の認識を改めるか、常識の方が変わることを期待するか。その擦り合わせをしながら生きることを意識しなければならないのかなあと。美容整形なんてしたかったらしたらいい、化粧が良くて整形がダメな理由ってなんだよ?とは私は思うが、親は「不完全で醜い子供として産んでしまってごめん…」と傷つくかもしれないし、そういう親の気持ちが理解できる人は「親から貰った体で整形するなんて信じられない」と言うのも当然のように思える。その一方で「整形したらみんなが優しくなった。コンプレックスもなくなって心に余裕ができて、人生良くなった」と言う意見もあれば、「そう言うストーリーは美容整形業界の陰謀から与えられたものでは?」「整形で人生全て変わるわけがない、元々あなたの考えがダメで、自分の顔より、自分の考え方や評価してくれる人を変えようとしなかったの?」「整形なんて知らなかった、騙されたと思われても仕方ない」「整形すればなんとかなるという風潮も困る」ともなるだろう。

スポーツのドーピングについては、著書の中にあったんだけど、かつてオリンピックでロシアが女性選手に男性ホルモン等を投与することによってメダルを大量獲得させていたことがあったそう。オリンピックに出るような若い選手(未成年)はそのことを知らず、大会が終わった後に分かり、男性ホルモンで人体が変わってしまって性別変更を余儀なくされるみたいなこともあったよう。「上の立場から選手にドーピングを強要することを可能にする」「スポーツ大会が科学者たちの薬の効力のお披露目大会になる」「自分の実力で取ったと思ったメダルが薬の力であると知った時の選手の無力感、後の潰しの効かなさ」「人体を勝手に改造させられる」と言うような、様々な記述があった。言われてみれば、これは本当にそう。ちゃんと考えれば似たような答えは出たと思うので、想像力をコントロールしなければならないと反省しました。

スポーツは本人の努力以外の要素もある厳しい世界だとは思うけれど、日々トレーニングを頑張ったという過程も込みで試合を見ているわけだもんね…と思った時に、ふと「スポーツで過程というストーリーは重要な要素だけど、美容ではそこまで過程は重要じゃないな?対外的には、生まれつきカワイイことがよしとされるのでは?いや、スポーツも生まれ持った才能の無双が見たい人もいるか?」とも、ちょっと考えた。これはスポーツと美容、それぞれの業界の戦略に寄るものなのかもしれないな。

最後に、このように私たちは「より強く、美しく、優れたものであろうとする」のだけど、同時にそのことは「私たちが社会に生きづらさを感じる理由と深く関わっている」と著書の中にあり、これは本当にそうなんだよな……と頷いてしまった。美しくて、強くて、優れており、若くて、金があって、優しくて、人徳があり、誠実さと道徳性を持つ、みたいな完全体には果てがないのよな。自分と他人を相対的に考えることが生物としてのベースなのに、今は比較対象が多すぎる。そう簡単に答えが出せるテーマではなかったが、ちゃんと考える機会があって良かったと思う。

現状維持とはゆるやかに朽ちることを指す

水色チェックマークのあるタイトル作品のネタバレを含みます

最近観たYoutube動画のメモ。

【ゆっくり解説】85 「人の得が許せない」みんな仲良く共倒れ「スパイト行動」

動画の内容をざっくりメモ。平等性を突き止めると、他人が楽に(見える)利益を得ることが許せなくなることがある。他人の得が許せない。自分が損をしてでも、他人の足を引っ張りたくなる。それを不平等という罪への罰だとして考えると、社会は一定の協調性を持つが、イノベーターは罰せられることが枷となり、結果的にその国の社会に新しいものが生まれにくくなる。他人の得が許せないと言う精神が、win-winではなくlose-loseを齎す。「他人が得を得ようとする行動に協力しない」という消極的なスルーが、新しいものを教えてくれようとする全ての行動に相手側の利権を感じてしまい(「広告宣伝では?」)、それが反感となり、現状維持を選ぶ。相手の得を許せない時、自分の得も許されなくなるのだ。だから共貧状態に陥る。みたいな話。

『日本人は』と言う枕詞は流石に主語が大きい!とは思うし、内容にも全面的な賛同はできかねるのだが、自分も感情的にLose-Loseを選ぶケがあるな……と思って自戒のためにメモ。「きっと自分が損をした分であいつが不当な得をしているんだ」みたいな認知の歪みを自覚して(もしその認識が正しかったとしても攻撃性を肯定する理由にはならない)、感情的な結論を出さないよう、考え方を改めよう。

あすけんの女とヨリを戻した

水色チェックマークのあるタイトル作品のネタバレを含みます

体重が大いに増え、ずっと前に別れたあすけんの女と復縁することにした。このレコーディングダイエット用のアプリ、やっぱなんだかんだで入力が楽なんだよね。このサイトの前にやっていたレコーディングダイエットのブログをやっていた時は、Googleスプレットシートでの計算と食事内容をブログに記録していくだけで70kg→53kgくらいまで痩せたので、やっぱなんだかんだで軽量・記録は重要なんだよなあ。

日曜日はプーレ・ロティ ちょっと不便で豊かなフランスの食暮らし / 川村明子

最近インスタで中谷美紀のオーストリア生活を見ていたら、そういえば昔から旅行記やらフランスやらでエッセイを出していたなあ、というのを思い出しつつ手が伸びた本。目を瞑った時の寝る前の妄想の糧にするのにちょうどいいかという、まるでエロ本みたいな用途で手を出してしまった。私はいつもこんなふうに洋館雑誌やらレシピ本やらに手を出してしまっている。まあ遠くにあるものが美しく見えるとも言うし……。
ともあれ、この本は著者がパリに留学した際に料理を学んだあれこれや、ライターとしての仕事で得たフランスにまつわる知見などをまとめたもの。フランスは、日曜日はスーパーの大半が営業していないし、日本ほど豊富に加工品が置いてある訳でもないらしい。基本は素材そのまま、またはチーズなどのよく使う加工品などは売られているもの、ドレッシングやマヨネーズやらなにやらは手作りが多い国らしい。ここにはコンビニも無く、しかしそういった不便さが良いのだと著者が言う。ものが無ければ無いで作ったり、多少の不便は工夫してどうにかすると言うのが人間というものだ。市販の完成品をただ消費するのではなく、工夫しながらプロセスを作り出す営みがよいとのこと。この辺りは分かる気がするな。流石にマヨネーズを自作することはないが、自炊が好きだし……。すぐ買えて即消費行動を行えるのは時間がない時はメチャクチャに助かるが、多少気力がある時には自分で工夫を加えた方が、少しは日々の退屈を紛らわすことができるのは確か。それを豊かと呼ぶかどうかは主観によるとは思うが、この著者のフランスでの暮らしで得た知見などを垣間見るのは楽しかった。今夜、寝る前にはフランスで暮らしてる妄想して寝ます。(オチで台無し)

遠くにあればより美しく、近くにあればより醜く見えるもの

水色チェックマークのあるタイトル作品のネタバレを含みます

ほんとうの多様性についての話をしよう / サンドラ・ヘフェリン

この本を見た時、「そういえば『僕はイエローでホワイトでちょっとブルー』と『みんな違ってみんないいのか? ――相対主義と普遍主義の問題』を読んでないなあ……」とぼんやり思い出し、表紙とタイトルからしておそらく国際なんとか移民なんとかのテーマだろうとあたりをつけて手に取った。普段興味がないジャンルだから、一度くらいはちゃんと読んでおくか!みたいな。

著者のサンドラ・ヘフェリンさんは、日本人とドイツ人のハーフの方で、どちらの国にもルーツを持ち、その立場から、ハーフ・多文化共存についていくつか執筆活動をされているそう。語り口は易しく、大人から子供まで理解のしやすい文面で構成されているが、著者の取り扱うテーマがテーマなので一通り考えさせられる。例えば、私はこの本の著者名を見ただけで「サンドラ・ヘフェリンさん……和訳本だろうな」と先入観が働いた。実際には、著者は日本人でもあるので普通に自身の国の言葉語で書いており、訳者を通した訳ではなく、私が名前のカタカナだけで著者に外国人判定をしたのだが、そういうことは日本でよくあるそう。著者は白人寄りの外見をしており、日本に20年以上住んでいるにも関わらず(日本国籍もパスポートで証明できる)、役所や銀行で外国人扱いを受けてスムーズに手続きをさせて貰えなかったり、親切そうなおばあちゃんに「日本の折り紙って、わかる?上げるわね」と外国人としておもてなしされて複雑な思いを抱いたり、外見だけで判断されることが多々あるそう。外国人にしか見えない日本人、逆に日本人にしか見えない外国人など様々な人がいることを、日本人は普段意識して生活していないので、ほぼ外見から判断する。日本は確かにそういう国だなあ。移民の受け入れも積極的ではないので、日本人っぽくない外見であれば、私もそういう対応をしてしまうかも。人を見かけで判断するなという言葉は簡単に出てくるが、実際には環境と頻度・慣れの問題かと考えるので(自分の周りにそういうルーツの人がいないと、完全に他人事になってしまい、咄嗟に出てくるのが思考停止した反応になってしまいがち)、私もこれを機に気をつけたい。本の良いところは、こういう知識を得られるところ(覚えていればいざという時役に立つ)だよな。
とはいえ、移民受入に積極的でいろんな手を尽くしている国も差別的な意識が全く無い訳でもなく、結局は人間は他人からの影響を受けやすいことを理解する必要がある、とのこと。これも分かる。人はその場の雰囲気や世間に流されるので、その世間の根底に差別的な風潮があるのであれば、特に思考は働かない。寄付を募るポスターでよく見る「貧困層と思われる痩せすぎの黒人の子供」は反射的に哀れに思うのに、「在日朝鮮人」に対してはいい感情が働かないなど、国籍のイメージや外見で人をその場の雰囲気で判断しがち。この雰囲気自体を良いものにしていくためにも、ひとりひとり意識を持つことが望ましい、ということかな。自分の当たり前は、自分以外の常識ではない。また、逆に自分の国について誤解されているときは、きちんとノーを突きつける。誤解を誤解のままにしておくと、その雰囲気がますます常識となる。多様性というものは、何でもかんでも「みんな違ってみんないいよね」と受け入れることではない。その一言で終わる思考停止は、隔離や拒絶に近い。むしろ、互いに衝突が起きていることの方が、理解が進むので望ましい。

イスラム教では名誉殺人を暗黙に認める風潮がある。移民となったイスラム教の家族の父親が娘を殺すことが、受け入れしたドイツ内ではよく起こったらしく(ドイツ人に誘われて婚前交渉をした娘を家族の名誉回復のために殺す)、そういうことを「イスラム教はこういう文化だからね」とただ受け入れるのではなく「この国はいかなる理由によっても殺人は絶対に容認しない、殺人は殺人として取り扱う。また、我が国は男女平等であり、この国に来たからにはルールに従ってもらう。性別によって親に強制結婚させられたり、教育を受けられないなんてことはあってはならない」とハッキリ表明する。そして、そのルールを教えるための教習もきっちり受けもらう。相手側から「我が国、宗教では当たり前のことだ!お前の国はうちの宗教を軽視しているのか?」と言われてもノーを突きつける。そういう衝突を繰り返し、すり寄せする作業を、確かに日本人は(というか私は)面倒だと感じてしまうだろうなあ……。この辺りの自覚や意識が出来ただけでも、この本を読んだ甲斐があったと思う。

別件だけど、先日読んだ『絵本のお菓子』に出てきた絵本『ちびくろさんぼ』、やっぱ黒人差別的な表現で問題になったんだ?この本でも話が出て出てきたので、Wikiで軽く読んだ感じ、人種差別や著者権無視が世界で横行した挙句、一斉絶版問題が起きとる……。人種差別云々のテーマは得意ではないので、気は進まないが、気が進まないからこそチラッとだけでも、また調べておくかあ……。

ノーベル賞受賞者覚えていなさすぎ問題

水色チェックマークのあるタイトル作品のネタバレを含みます

創造的人間 / 湯川秀樹

日本人初のノーベル受賞者と名高い湯川秀樹先生の著書、とはいうものの、何を専攻されていたのかまるで覚えていない。アインシュタインと既知だったみたいな話を聞いた覚えはあるので、物理学で志を共にしたか、もしくは量子力学でサイコロ投げ合ってバトったとか、まあ多分その辺りなのでは……とアタリをつけたが、ググったところ「理論物理学、中性子の存在を予言して理論の正しさを証明してノーベル賞を受賞した」とのこと。なるほど(分かってない)。でも、このようなゴリゴリの理学博士が『創造的人間』について語る内容には興味があるなと思った次第である。

そういうわけでこの本を読み始めたのだが、めちゃくちゃいい持論が書かれている。
意訳にはなるが、1965年の時点で「科学文明とは、人間の頭と手を通して出来た第二の自然である」「エックス線や原子力という、偉大な発見だがあまりにも急性に実用を進めすぎた結果被った、予想外の被害、ひいては基礎研究の重要さ」「機械の方がいくつか優れている箇所があり、それに人間は負けじと頭の回転を競うのではなく、反射的な素早い行動については機械に任せ、じっくりと時間がかかる総合的な判断は人間が行えばいい。しかし機械の方が有能になる未来は遠からずくるだろう、その時人間のなすべきことは何か?」「良かれ悪しかれ、刺激の多い文明となった。目に耳に入ってくる情報量が多すぎる。そういう諸々が私たちの大きな悩みの種となる」などなど意見が出ていた。やっぱり学者というのは先々のことまで考えているものだなあと感心した。まだ50Pしか読んでないのだが、咀嚼するのに時間がかかり、ここまで読むのに一週間はかかってしまった。355Pまであるっぽいので、また、ちまちまと読み進めていきたい。