料理は器に綺麗に盛った方がより美味しく感じる理論
10代向けのシリーズ・ちくまQブックスから、「人体改造はどこまで許されるのか?」という生命倫理について書かれた本。この本では、テーマとして「美容整形」「スポーツ選手のドーピング」「頭を良くするスマートドラッグ」について触れている。とりあえず先に、このテーマに対する自分なりの意見を簡単にまとめてみた。
「美容整形」…医療行為を超えた、自分をより良くするための改造手術という認識。100%本人の意志で行う分にはアリでは?と思ったけれど、自分の意志が100%なんてことないもんなあ。とはいえ、ドーピングやスマートドラッグに比べれば、忌避感はそれほど無い。歯列矯正も美容整形の一種だからかな。理屈としては問題なさそう。ただ、人間は社会の中で生きているので、周囲の人間の雰囲気次第で大きな齟齬が発生しそう。私個人の倫理的にはOKの部類になるな。美容整形、人間改造の一環として、遺伝子デザインの改造まで行えるようになったら、それはそれでまた考えます。
「スポーツ選手のドーピング」…これはNGの部類かなあ。スポーツは本人の努力は前提として、そのほかに遺伝子や環境、最新知識と金が物を言う世界だとは思うが、健康を過度に脅かすものは法律なりルールなりで規制されているので、それに違反するのは明確にNGでは?ルールに違反することが許容される社会になると人間社会そのものが成り立たないだろ。ただ、どこから「OKなドーピング」になるかは私も曖昧だなあ。カフェインくらいは許してもいいのでは……と言う気持ちもある。カフェインは明示されたルールには違反していないだろうから。しかしそのままだと明示されていない薬とかも後発で出てきそうだし、これがOKなら開発されてしまうし、人間の倫理観で歯止めをかけなくちゃなと慎重にならざるを得ないところだから、ひっくるめてNG判断に寄るのかも。ただ、世間の雰囲気とかが許していそうな範囲のものは、つられて「これは常識的にOKっしょ、コーヒー飲んだくらいなら」と判断をしてしまうと思う。(カフェインを受け付けない体質の人に対して不平等では?って言われたらめんどくせえな…じゃあ一律禁止にします?ってなるかもしれん、それが昨日日記にメモした『「人の得が許せない」みんな仲良く共倒れ「スパイト行動」』と言うものに関わってくるかも)
「頭を良くするスマートドラッグ」…スポーツ選手のドーピングと一緒。
今現在はこんな認識かな。と言うことで、以下は、本を読んで擦り合わせた感想。
「(整形するのは)本人の自由でしょ?」と言う言葉は、著書の中で指摘のとおり、いろんな問題を抱えているかと思う。人は社会の許容の中で生きており、全てが個人の自由として許されるわけではない。もちろん心の中で何を思うかは自由だが、アウトプットするには社会のルールや常識に則っている必要がある(本人の自由で犯罪起こしていいわけがない)。自分の認識を改めるか、常識の方が変わることを期待するか。その擦り合わせをしながら生きることを意識しなければならないのかなあと。美容整形なんてしたかったらしたらいい、化粧が良くて整形がダメな理由ってなんだよ?とは私は思うが、親は「不完全で醜い子供として産んでしまってごめん…」と傷つくかもしれないし、そういう親の気持ちが理解できる人は「親から貰った体で整形するなんて信じられない」と言うのも当然のように思える。その一方で「整形したらみんなが優しくなった。コンプレックスもなくなって心に余裕ができて、人生良くなった」と言う意見もあれば、「そう言うストーリーは美容整形業界の陰謀から与えられたものでは?」「整形で人生全て変わるわけがない、元々あなたの考えがダメで、自分の顔より、自分の考え方や評価してくれる人を変えようとしなかったの?」「整形なんて知らなかった、騙されたと思われても仕方ない」「整形すればなんとかなるという風潮も困る」ともなるだろう。
スポーツのドーピングについては、著書の中にあったんだけど、かつてオリンピックでロシアが女性選手に男性ホルモン等を投与することによってメダルを大量獲得させていたことがあったそう。オリンピックに出るような若い選手(未成年)はそのことを知らず、大会が終わった後に分かり、男性ホルモンで人体が変わってしまって性別変更を余儀なくされるみたいなこともあったよう。「上の立場から選手にドーピングを強要することを可能にする」「スポーツ大会が科学者たちの薬の効力のお披露目大会になる」「自分の実力で取ったと思ったメダルが薬の力であると知った時の選手の無力感、後の潰しの効かなさ」「人体を勝手に改造させられる」と言うような、様々な記述があった。言われてみれば、これは本当にそう。ちゃんと考えれば似たような答えは出たと思うので、想像力をコントロールしなければならないと反省しました。
スポーツは本人の努力以外の要素もある厳しい世界だとは思うけれど、日々トレーニングを頑張ったという過程も込みで試合を見ているわけだもんね…と思った時に、ふと「スポーツで過程というストーリーは重要な要素だけど、美容ではそこまで過程は重要じゃないな?対外的には、生まれつきカワイイことがよしとされるのでは?いや、スポーツも生まれ持った才能の無双が見たい人もいるか?」とも、ちょっと考えた。これはスポーツと美容、それぞれの業界の戦略に寄るものなのかもしれないな。
最後に、このように私たちは「より強く、美しく、優れたものであろうとする」のだけど、同時にそのことは「私たちが社会に生きづらさを感じる理由と深く関わっている」と著書の中にあり、これは本当にそうなんだよな……と頷いてしまった。美しくて、強くて、優れており、若くて、金があって、優しくて、人徳があり、誠実さと道徳性を持つ、みたいな完全体には果てがないのよな。自分と他人を相対的に考えることが生物としてのベースなのに、今は比較対象が多すぎる。そう簡単に答えが出せるテーマではなかったが、ちゃんと考える機会があって良かったと思う。