やっぱ聖書からは逃れられないのか?
前回の続きから。読了。
▼前回
やっぱ全人類「ひぐらしのなく頃に」を履修しておくべきなんだよ絵本ちびくろサンボの「サンボ」が蔑称だということで論争が巻き起こった絶版騒動、なんやかんやで「絵本の少年はインド人、インドではサンボは普遍的な名前」というネタが本の付録のコーナーで出てきてしまったので、もうこれ以上、この前提がなかった時代の揉め事を聞くのはしんどいが?と思って寝かせてしまっていた。しかしながら、まだ200P近く残りのページがあったので、なんとか重い腰を上げて読み切った。以下メモ。
この絵本を差別問題とこじつけるのは大人の都合であって云々の理屈で、再度出版に踏み切った会社もある。もちろん日本の差別反対団体の抗議も受けたが悉くスルーし、差別を受けたと主張している当のアフリカ民族会議の駐日代表の抗議にも、電話で「あなたの見方がおかしい」と返した。差別とは「痛み」というものを感じる人が一人でも声を上げれば成り立つのか?
昔の英辞典には「サンボ=蔑称」という記述はないが、最近の英辞典にはそのような記述がある。のろま、知能が低い、猿を意味するなど。国や場所、歴史背景から、同じであるはずの言葉が、違う意味を持ち始める。ポジティブな意味で普及している国に住む人にはなんともないが、ネガティブな意味に変わった言葉が普及しまって場所では違う風に捉えられてしまうこともある。時代と共にネガティブな意味を持つようになってしまった言葉に過剰反応したり、それに露悪的な態度で改悪した絵を添えたり、皆同じ時代背景を認識していないといったことも、事態を複雑にした要素の一つではあるが、それが全てとも言い難い。例えば、ちびくろサンボの原題は『The Story of Little Black Sambo』であるが、日本人は『Little Yellow Monkey』と書かれた吊り目の軍人やゲイシャが出てくる絵本が出てきたら、同じように思えるか?その本がインド人のよくある名前のサンボくんの物語だったとしても、出版にあたってステレオタイプの黒人像に絵を変更された絵本を、奴隷時代に「おいサンボ!」と揶揄われ続けてきた黒人が見たら、そしてその息子が学校で「サンボ」というあだ名をつけられて泣きながら帰ってきたら、絵本を配給する側に配慮してほしいというのは当然のことでは?「あなたと私は違う人種」という強烈なメッセージである。聖書でも取り扱うテーマなので問題が根深い。
しかしながら、インド人から見た絵本の見方もまた違うことであることも、同時に気に留めねばならない。それにちびくろサンボが好きな黒人もいる。それを気に入らない人もいる。人種によってその傾向はあるが、個人としてもまた違う意見を持つ。などなど。
つまり、己の認知の負荷を下げるために、過度に一般化して(「ちびくろサンボは黒人差別の絵本だから絶版は止むを得ない」)、問題を「だから当然ダメ」の一言で済ませるのは悪手になりうる。
人を一人理解するにも、今日明日、今この瞬間に変貌するその人の人格に対して、常に変化し続ける評価をもたなくてはならないというのは、あまりに負荷がかかることである。一生をかけて一人を理解するよりは、1つのステレオタイプで「日本人(1.2億)は全員メガネで慇懃無礼」みたいな雑な理解をしておく方が圧倒的に楽だ(それが普段、使う機会のない概念であればなおさら)。ただ、今回の問題は、その「楽」な方へと全体が舵を切り続けた結果、問題が拗れたとも言える。立ち止まって考える、その機会と意識は、事情が許す限りは少し持たなくてはならないのでは。
そういった意味でも、「差別問題だからと訴えられた」から即座に絶版してなかったことにするのも、出版側の悪手なのかもしれない。本にはこう書いてあった。差別用語をなくしても差別意識はなくならない。表にある、外に出ている「有害」は消せたとしても、人間のフィルターまで消せるわけではない。問題から目を逸らしても問題がなくなるわけではなく、嫌々ながら正面から格闘をする必要もあるだろう。ただまあ、売る側もイメージ商売ではあるし、恒久的に対応し続けなくてはいけない問題を抱えるのは、負荷のかかることだしなあ、と考えると、やっぱ止むを得ないのかな……。高尚な倫理観を出版側に期待するのは勝手だが、まずそんなことを他者に期待するのではなく、自分からできることを考えた方がまだ生産性があるのでは?と言われれば、それは確かにそうだもんな。
とにかく負荷のかかる問題ではある。日本は「黒人差別」と言われると、あまり身近なこととは考えられないかもしれないが、「男女差別」と言われると急に「うわ……この話題には近寄らんとこ……」と面倒に感じてしまうもんな。大体のことには優位も劣等もなく、人間の認知の歪みでそのような錯覚を起こしているだけなのだが、その思い込みで実害が出ていると感じている以上、それが論拠になってしまうのもわかる。だからと言って、そのように、答えも出なければ、他者の理解も得にくい、ただただ自分を含めた人間の無知さ・愚かさを直視し続けるような行為も辛い。もっと他に、楽しくなれるような遊びなんていっぱいあるもんな。
本の中にもあったが、結局のところ、「サンボ」という言葉の意味が問題ではなく、その道具を用いて他者を傷つけるために振り回す人間がいる、ということが問題なのだろう。そしてその幻視を見て、勝手に心が傷ついてしまうことにまでは、誰も責任が持てない。また、過度に一般化をしてレッテルを貼り、何も考えもしなければ偏見も改めないなど、己の認知負荷を下げる行為はおおよその生物の本能とも言えるので、その人が悪いわけでもない。どうしたらいいのか、見当もつかない。だからこそ、安易に結論を出してしまうことはできる限り避けて、悩みを保留し続けることを、諦めるしかないのかも。