「2022年8月」の記事一覧

桜の樹の下にはコスパが埋まっている

水色チェックマークのあるタイトル作品のネタバレを含みます

桜の樹の下には / 梶井基次郎

桜の樹の下には死体が埋まってることで有名な小説、青空文庫で探してみたら、文庫5P分(2000文字以下)で終わることに気づいた。あまりにコスパ良すぎるな……!(実際読んだことあるよマウントを取るために必要な労力に対しての費用対効果)

ちびくろ・さんぼ / ヘレン・バンナーマン

前々から気になっていた例の絵本をようやく読んだ。

ヘンゼルとグレーテル、こんがりパイの魔女風味とか出てきたらどうしようかと思ったヘンゼルとグレーテル、こんがりパイの魔女風味とか出てきたらどうしようかと思った 遠くにあればより美しく、近くにあればより醜く見えるもの遠くにあればより美しく、近くにあればより醜く見えるもの

一回絶版になったと聞いたので、今更手に入るのか…!?と心配したが、普通に復刊してました。簡単に手に入ってよかったよかった。

内容は、主人公の黒い肌の少年・ちびくろさんぼが、自分を食べようとする複数の虎に対して機転と勇気で乗り切る話。
父と母に素敵な衣服(赤い上着、あおいズボン、緑の傘、紫の靴)を買ってもらったちびくろさんぼは、ご機嫌でジャングルへ散歩に行った最中、次々に人喰い虎と出会う。自分を食べようとする虎に、ちびくろサンボは自分が着ていたアイテムを一つ渡すことでその場を凌ぐ。次に、また別の虎と出会う。食われそうになる。アイテムを渡す。これを、衣服がなくなるまで繰り返した。どの虎も、命と物の交換で手に入れたそのアイテムを気に入ったようで、「俺がジャングルで一番だ!」と機嫌よく去っていったが、四つのアイテムを手に入れた四匹の虎たちは、やがて誰が本当に一番なのかを争うようになった。ちびくろさんぼは、言い争いの横で投げ捨てられているようにも見えるアイテムを見つけ、いらないのなら貰う、と言って回収。虎達は、興奮ししながら木の周りをぐるぐると回る。その余の速さに、ぐるぐると回り続けた虎達は溶けたバターとなってしまった。その後、通りかかったちびくろさんぼの父は、手持ちの壺に溶けたバターを回収。家で待っていた母がバターを使ったパンケーキをたくさん焼き、そのパンケーキはとらの模様のように茶色と黄色で出来ていたのでした。めでたしめでた、

だ、ダンガンロンパで見た大和田バターの出典ここだァー!!!!!!!!!!!!!!!

思いもよらないところで、思いもよらない作品の元ネタに気づいてしまい、めちゃくちゃエキサイトしてしまった。お、お前〜〜〜そう言うことかァ〜〜〜〜!!!!!!!!!!

落ち着いたところで、改めてWikipediaを見てみた。

ふむふむ。
インドに滞在していた著者が手作りで絵本を作ったと。それを友人がイギリスの出版社に持ち込み、1899年に出版したが、なんか著作権周りに大分闇を感じる事情があったと。(友人は持ち込んだまま著作権登録をしなかった、だから海賊版が出回った等)
それに加えて、(おそらく海賊版で作られた絵本を見て)、原色の派手派手しいファッションセンスや、パンケーキの大食い描写から『偏見による黒人蔑視ではないか?』との声がアメリカで上がってしまい、それを見た日本も一度自主的な絶版を決断する。ただ、黒い肌のちびくろさんぼ家族は、植民または奴隷にしているアフリカ人ではなく、著者はインドに住んでいた時に絵本を作って、インド人の少年をモチーフにしていた。インドに虎が出てくるイメージは多々あるが、アフリカには虎は生息していない。当時アメリカ国内で発生していた黒人差別に対する運動には、無理やり絡められてしまったような状態だった…のかな?著作権問題、誤認された描写、過敏になっている差別表現への対応諸々で一旦絶版になったが、諸々の状況を鑑みて、日本では復刊することになった、みたいな話らしい。

確かにワクワクする絵本だしなあ、世界的にもかなり売れていた本だったようだし、今になってはそれでよかったと思う。

著作権切れのため、絵本の内容を公開しているサイトもちょこちょこ見つけた。

参考までに見た動画メモ。

この一連の騒動についての本もいくつか出ているようなので、また機会があれば手に取ってみたい。

トラのバターのパンケーキ / ヘレン・バンナーマン

と言うことを踏まえて、1998年復刻、インド人版の『ちびくろ・さんぼ』こと『トラのバターのパンケーキ』の方も読んでみた。アジア系インド人っぽい登場人物のイラストに変更され、前書きにも「30年インドで暮らし、ふたりのむすめのためにインドを舞台にした物語を書きました。お話の主人公には伝統的なインドの名前をつけ〜」との記述が。へー配慮するじゃん、と思いながら本文を読み始めたところ、さ、サンボが!?ババジに名前を変えられとるが!?あまりに配慮しすぎたのでは!?!?

おしゃれなサムとバターになったトラ / ジュリアス・レスター

これも50年だってから復刻したバージョンの『ちびくろ・さんぼ』の一種、と言いたいところだが、だ……大丈夫か?表紙が既にかなりアフリカ系アメリカ人だが?原典に近づけようと頑張ってインドに寄せた『トラのバターのパンケーキ』をみた後だから、逆にこの『おしゃれなサムとバターになったトラ』、帯に説明のある「〜さまざまに不難を受けてきた物語を再構成し(中略)主人公サムに、生命と命を吹き込むために南部の黒人独特のストーリーテリングを使っています」が私を不安にさせてくる。そっちに寄せたんだ!?原点の著作権が切れたから、そのまま改変して非難を考慮したものに作り直したと。まあ元々、海賊版が出回ってた当初は50種も出てたっぽいこと書いてあるので、これも忠実な流れか……と思ったら、著者とイラストの2人はアフリカ系アメリカ人(岩波文庫から『奴隷とは』という本も出している方)だそうで、うーん情報量が多くて頭がこんがらがる。

絵本のストーリーはちょこちょこと改変されており、動物と共に暮らす架空の国に住まう「サム」が(中略)トラのバターでパンケーキを作ってエンド、みたいな感じ。イラストに力を入れており、迫力のある動物(特にトラ)が見応えがある。文章で読み応えがあったのは、後書きかなあ。「原作の主人公は、黒人であってもアフリカ人ではない。トラがいても、インドではない。架空のどこかなのでした」お、おう。また情報がブレとる。「最も普及した岩波版の絵本は、黒人のステレオタイプを描いたとされる非難は交わしようもないほど、醜悪であった」「その代わりこの絵本の会社は、米黒人と仕事をする機会が非常に多いから、サンボ問題の適切な解決の一端を担えると思うよ!(意訳)」「原作者の意図とは違うイメージが長らく一人歩きしていたけど、これでようやく親子で楽しめる古典が息を吹き返したよ!(意訳)」みたいなテキストが並べられ、お、おう……。俺は何をみている?絵本なのに、いろいろな問題が透けて見えとんのよ。人種差別問題はデリケートな話になるのでさておくが、出版業界同士で揉めあってる様がバチバチに見えて、おもしろ〜(本音)

ちびくろ・さんぼ2 / ヘレン・バンナーマン

ここまで来たら、全部読みますかあ!

ちびくろさんぼには、双子の弟ができた。ウーフとムーフと名付ける。日に日にかわいさを増していく弟たちをみていたジャングルのさるたちは、自分の子供にしたいと誘拐を実行(!?)。高いヤシの木の上に置かれた双子をどのように助けようか……と言うような感じ。安定のパンケーキエンド。

ちびくろ・さんぼ3 / ヘレン・バンナーマン

おばあさんを助けたお礼にコインを1枚もらったちびくろさんぼが、「もうじゅうのねむらせかた」という本を買った。ハチミツを取りに行った先のジャングルの中で、夢中になって本を読み耽っていると、人喰いトラがまた一匹一匹と近寄ってきて……という、トラ・リターンズに胸が熱くなるなどした。前はバターになった彼らだが、今度はどうなるのか?最後までワクワクしながら読める、いいシリーズだった。完。

自信がないと、何をしたいのか、何ができるのか、何をすればいいのか、全て分からなくなる

水色チェックマークのあるタイトル作品のネタバレを含みます

先生、どうか皆の前でほめないで下さい いい子症候群の若者たち / 金間大介

何がきっかけで手に取ったか忘れている……!
この本は、良くも悪くも最近の日本の若者は〜みたいな内容の本、と言いたいところだが、著者は大学教員かつモチベーション研究をしている方で、学生との授業・就活でバチバチに若者と関わってきただけあり、説得力があると感じる内容だった。

私は最近の若者(大学生〜新社会人くらいを想定)の実情を全く知らない。「たぶんInstagramやTickTock、Youtubeのインフルエンサーに影響される世代、まじめをちゃんと装える、道徳観はありそう」くらいのイメージしかないのだが、実際どんなふうに世間から思われてるの?と気になりつつ読み終えた。

著者の調査によると、過剰に「いい子」で居ようとしてしまう、いい子症候群が若者にはあるように見えるらしい。精神科医の名越康文先生が言うところの『過剰適応』ってヤツ?

そのほかにも、「企業には疑いを持つ一方で、SNSやインフルエンサーには影響を受ける」「とにかく目立ちたくない(本のタイトル通り、みんなの前では褒められたくない。しかし、後で二人きりのときに褒められるのは嬉しい)」「意識高い系にはなりたくない(ガツガツ積極的になるのは痛いように見える)」「反応が薄い」「みんなの意見に合わせる、倣う」「予防線、自己防衛に長けている」「劣等感があり、自分に自信がない」「個人の努力や実績で配分を決めるより、ただ万人に平等に均等分配することを選択する割合が高い」「社会貢献を行いたい(ただし献血などではなく、仕事という場を整えてもらった上で、直接誰かに感謝されるようなことをやりたい)」「大人の考えをなんとなく見抜き、大人の『若者に教えてやりたい欲求』をうまく使うなど、合わせることができる」などなどが若者の特徴であるらしい。これは著者も言っている通り、特に悪いことではないように思う。

まず、日本の教育方針は常々、運動会でお手手を繋いでみんなでゴールをするみたいな「横並び」と称されることの多い横社会とも言えるが(同世代のコミュニティ)、社会に出てからはバキバキに明確な縦社会に放り込まれる。その擦り合わせを行う最初の場である「就活」で、急に『個性』とやらを発揮させられ、『競争』が起きる状況下で、戸惑うことも多いようだ。それでも、求人企業が「自主性のある若者が欲しい!」みたいなことを建前上言いつつ、でも「素直な若者のエネルギーを安価に使い倒したい」と思っているのは、基本的に若者たちは見透かしていると言って良いそうだ。エライ〜!!
マジで就活って、いきなりライアーゲームさせられるようなもんだからな。嘘も方便、物は言いよう、とはいうけれど、一回やっただけでメチャクチャ「大人」「社会」「自分」すべてに幻滅するからな。麻痺してからが大人の始まりとも言える。あらかじめそれらを想定できるというのは、とてもかしこいことだと思う。

ちょっと意外だったのが、「今の新入社員は飲み会に参加する」らしい。おや?そうなの?早く帰りたいと思っているのでは?と思ったけど、確かにそうか。私の認識がずいぶん古かったな。目立ちたくないいい子が上司の誘いを断ったりしないし、今の飲み会は暗黙の了解で圧をかけながら『若い女はビールを注げ、ラベルは上にしろ、若い男は場を盛り上げるために恥を晒せ』みたいな飲み会じゃないだろうからな。それなりに新人に目一杯気を使う上司もいるだろうし、上司も「断られるかな〜?」と不安に思っている中明るくイエス!と言ってくれたら株も上がるだろうし、そこまで悪い選択ではないのか(コロナ禍という状況は想定の外に置くとして)

あと、日本の悪い癖に影響されてて、基本的に「あきらかに困っている人を見かけても、その人が外のコミュニティの人であるならば、自発的には声をかけない」が「相手から助けてもらえないか?とお願いされたら、喜んで行う」みたいな傾向があるっぽい。これは令和の日本の若者に限らないのでは?昭和の日本の若者だってそうだったような気もする。また、「ずるいやつには自分が損をしても相手の足を引っ張る、同調できない黒い羊を罰する行動を取る」、いわゆるスパイト行動(前の日記でも取り扱ったやつだ!)も取る傾向にあると。これは……日本人全体がそうだからね……若者のせいというよりは、我々先人の悪い影響を見て育った若者たちの方が被害者というか……と思っていたら、やっぱ著者の方も、この辺は「大人が悪い」とバッサリやっているので安心して読むことができた。

現状維持とはゆるやかに朽ちることを指す現状維持とはゆるやかに朽ちることを指す

まとめると、昨今の若者に対するイメージと、やっぱ就活はクソだな!という認識がなんとなくアップデートされた本だった。リアルでは一言たりとも口に出したくない「最近の若者は○○」だが、この著書の本を読んでいると、「こんな世の中で一生懸命生きてて、昭和でも平成でも令和でも、若者は等しくえらい…!全員伸び代がある!」と励ましてやりたくなる。老婆心ながらに人生の攻略本を授けたい大人の気持ちもわかるが、人生経験を散々積んでるはずの大人が、これから縦社会の経験を積む若者のスタートにケチつけてもしょうがないんだよな。他人事のように言っているが、マジで自分のことだからな、自戒しろよ私……!!

さわやかな闇

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本を読んだら散歩に行こう / 村井理子

翻訳業をやりながら義両親の介護をし、突然死した兄の部屋を片付け、双子の男児の世話もする、そんな著者の人生を綴ったエッセイ本。40本のエッセイの最後に読んでいる本の紹介もしてくれるので、二度美味しい〜と思って読み進めたが、文から匂う生々しさに、やや著者が心配になったりもした。共働きしながら子供育てて認知症の入った義母を介護して、家事もやって料理もやって、しかしながら老いも感じ、病気も患い、一人の時間も乏しく……という、この世代ではごく当たり前なのだろう生活風景も漠然とした不安を感じるのだが、父母兄と次々に亡くなって、飼っていたペットも次々親の手によって遠くに葬られたことを思い出したりしていたりで、著者の周りに生老病死と愛別離苦が身近にありすぎる。そうなると文はかえって生々しさが増すのかな……。
エッセイ自体は面白く、スイスイ読める。本人はメンタルが強い方だと自負しているようでネガティブすぎる発言は出てこないのだが、エッセイで綴られる人生はまあまあしんどいものが多いように見え、なんだろう、篠原ともえの光属性っぽさが強く見えれば見えるほど、その後ろに濃い闇を見てしまうのに似ているみたいなやつ?(???)辛い過去を思い出し、内省を繰り返した上に、その心情を隠さず書き記す仕事をしているようなので、心情を言語化しすぎていることが、ある意味この著者の個性なのだろう。頭の中から湧き上がる大量のモヤモヤをアウトプットして外に出すのが当たり前になっているのかな。言語化すると整理はつくけれど、その分記憶の底に丁寧に仕舞われる。言語化できないことは忘れてゆくのに対して、整理された思い出はいつでも思い出せる状態になってしまうのでは。書くことを生業とし、己の全てを記すことを譲らず、忘れないことを選んだ生き方は素晴らしいと思うが、この人は本当にこの先大丈夫なんだろうか?本人は今は大丈夫っぽい雰囲気だけど、これは漠然と、ただただ毎日軋み続けるしかないやつでは。勝手に深読みしてしまい、勝手に心配になってしまったりした。……これはあれじゃん、まさに著者と同じ傾向のやつだな。
まあこういう的外れな心情を抱くことや明後日の方向に進む感情移入、読み終わった後になんか「いや〜……やっぱ私は一人がいいな……ここまで人生が波乱万丈なのは絶対に嫌だ……」と厭世的になってしまうことも含め、エッセイを読む醍醐味を味わったといえる。

数年前に話題になったナッジ理論も、今ではちょっと雲行きが怪しいらしいね(追試で効果が確認できない事例が出てきたとか)

水色チェックマークのあるタイトル作品のネタバレを含みます

データ管理は私たちを幸福にするか?自己追跡の倫理学 / 堀内進之介

読了。なんとなく当ブログを読み返していたんだけど、結構途中で投げっぱなしになったまま放置されている本が多いことに気付かされたので(体感よりずっと多かった)、今回この『読了』の二文字を叩きつけられるのは、たまらんものがあるな。そういうわけで、データ管理をしながら、前回の続きから。

▼第5章:セルフトラッキングの可能性
これまで提示されてきた点への懸念や批判についての反論。というものの、正直にいうと、この章の内容についてはあまり頭に入ってこなかった。私の好奇心が足りとらん……。
よって、めちゃくちゃ適当なことを述べることになるが、人間にはバイアス(信念体系の歪み)があるため、視点・支点を自ら以外の場所、つまり外にも複数持つべきなのだろう。それが他人でも、本の知識でも、ウェアラブルデバイスによる数値でもよい。自立とは、他人に依存すること止めるのではなく、依存先の数を増やすことにある。それにも通ずるところがある。セルフトラッキングは己の行動を振り返る一助になる、くらいのふんわりした認識。

▼第6章:道徳性を補完するテクノロジー
GPSの導入で効率的な狩猟を行えるようになったが、危険なスポット(氷が薄くなっている箇所など)を見分ける能力をなくすことになってしまったイヌイット。テクノロジーは、便利さという答え(もう考えなくてもいい結論)を与える代償に、対応能力(答えに辿り着こうと考える力)の諸々を失ってしまうのだなあ。その失ったものをカバーするようにまたテクノロジーで継ぎ接ぎされ、みたいな話か?と思ったら、熟考を促すソクラテスAIみたいな思想が出てきて、笑ってしまった。道徳も倫理も、一定化できるなら便利なんだろうけども……!
我々は認知や労力の負荷を下げることを善とした文明を築いてきた。最終的には「絶対的な知能・善」を作って、それをモデルケースもしくはモラルアドバイザーAIとし、それらに「補完」してもらい、言われた通りに生きていくことを選んでしまうことが、我々の究極的な『人間の証明』になるのかもしれないな……(キバヤシ口調)
まあでも、テクノロジーに依存しながらも、その依存先の設計を変えることもできるのが人間なので、その相互性が確立されている以上、別に現状は悪くないとすることができるのも確かだろうか。

▼最終章:慎重で開放的なスタンス
著書の趣旨とは逸れるかもしれないが(本の解釈通りに感想を述べられたことがないので適当を話すが)、「テクノロジーはこのような素晴らしいフィードバックを与えてくれる、しかしテクノロジーに依存するとこのような危険性がある、と感じる倫理観、考える思考能力、それを保ったまま、より良い社会の調和を目指してテクノロジーを使う道を模索しろ」みたいな方向性なのかなと。それを支えるのは、人間のあやふやな『倫理観・道徳観』とやらになるが、この能力も、使われなければ低きに流れる。新しいことを歓迎しながらも、あくまで自分を見失うな、そういうことかなと思って完!

管理されることはとても楽だが、たまには自律もしてみたい

水色チェックマークのあるタイトル作品のネタバレを含みます

データ管理は私たちを幸福にするか?自己追跡の倫理学 / 堀内進之介

前回の続きから。いつも通り本の内容と感想がごちゃ混ぜ。

▼第3章:定量化される関係性

これは大体、章のタイトルでなんとなく察した範囲かも。
デジタルデバイスによるトラッキングデータで得られることは、「可視化」「動機づけ」「監視(パートナーの位置を特定する)」など。また、アニメ『PSYCHO-PASS サイコパス』で用いられる、人間の心理傾向の計測と数値化を行う「シュビラシステム」、それを使って監視される個人の「犯罪係数」もある、数値化・定量化できることはこのように社会にとって管理しやすい概念になっていく、みたいな話。
言われてみれば、以前読んだ伊藤計劃の『ハーモニー』もそうだったかな。政府改め、生府が普及させている体内監視システム(ナノマシン)を成人に埋め込んで、あらゆる心身の不調をキャッチする、または勝手に医療行為を行う、そして結果をサーバーに送る、みたいなディストピアだったと思う。また、ゲームのステータス「筋力:192」とかも、計量化されて私たちに認識されているな。

▼第4章:測定されるものは管理される

ある人は「文明は、演算操作が考えることなしにできる量によって進歩する」といった。しかしプラトンが記した本の中では、文字は思考力や認知力を退化させるものではないか?と危惧されてもいた。あっ、これゲームさんぽで聞いた「文字は会話をするよりずっと情報量が低くて、だから古代ギリシアの哲学者は文字を信用していなかった」みたいな話だ!
ともあれ、文明が進み、機械化や最適化が進むと、考えなくても良くなる。労力も減り、すべてが楽になる。水を汲むのに半日費やさなくてもよい。蛇口をひねるといったような手軽さで、何も考えずに、大量の結果が得られるのなら、それが一番ではないのか?肉体のや認知の負荷を最小限まで下げつつ、あらゆる成果が手に入る、それが人間が進歩した証では?というのは分かる。
逆に、情報や広告を大量に浴びせ続けられて思考停止になっているのでは?スマホを使うたびに、実家の電話番号を忘れる。己の仕事が電気無しでは成り立たないというのなら、それは己ではなくて電気がやっている仕事だという考えはないのか?と、自らに問うことすらなくなる。生きる意味も誰かに教えてもらうようになる。というのも分かる。この辺りについては、また別途考えるとする。

話を章のタイトル『測定されるものは管理される』に戻して、数値化されたものは管理がしやすい。ただ、それと同時に「測量できるものは管理ができる(分かることは、できるだろう)」と思えば、自己管理からの自己責任といった風潮が日に日に蔓延していくのも止められないだろうし、数値化できるなら効率化を求め、さらに数値は格付けがしやすく、個人のデータはビジネスに飲み込まれ、企業倫理がそれに追いついていないことも考えられる等、本の概要を見て、色々見えるものはあるな……と思わされた。文明速度と思考能力はトレードオフの関係と一概には言えないと思うが、根底に必要なものは、やっぱ人の倫理観ではないか?

今日はここまで!

Togetterメモ。