数年前に話題になったナッジ理論も、今ではちょっと雲行きが怪しいらしいね(追試で効果が確認できない事例が出てきたとか)
読了。なんとなく当ブログを読み返していたんだけど、結構途中で投げっぱなしになったまま放置されている本が多いことに気付かされたので(体感よりずっと多かった)、今回この『読了』の二文字を叩きつけられるのは、たまらんものがあるな。そういうわけで、データ管理をしながら、前回の続きから。
▼第5章:セルフトラッキングの可能性
これまで提示されてきた点への懸念や批判についての反論。というものの、正直にいうと、この章の内容についてはあまり頭に入ってこなかった。私の好奇心が足りとらん……。
よって、めちゃくちゃ適当なことを述べることになるが、人間にはバイアス(信念体系の歪み)があるため、視点・支点を自ら以外の場所、つまり外にも複数持つべきなのだろう。それが他人でも、本の知識でも、ウェアラブルデバイスによる数値でもよい。自立とは、他人に依存すること止めるのではなく、依存先の数を増やすことにある。それにも通ずるところがある。セルフトラッキングは己の行動を振り返る一助になる、くらいのふんわりした認識。
▼第6章:道徳性を補完するテクノロジー
GPSの導入で効率的な狩猟を行えるようになったが、危険なスポット(氷が薄くなっている箇所など)を見分ける能力をなくすことになってしまったイヌイット。テクノロジーは、便利さという答え(もう考えなくてもいい結論)を与える代償に、対応能力(答えに辿り着こうと考える力)の諸々を失ってしまうのだなあ。その失ったものをカバーするようにまたテクノロジーで継ぎ接ぎされ、みたいな話か?と思ったら、熟考を促すソクラテスAIみたいな思想が出てきて、笑ってしまった。道徳も倫理も、一定化できるなら便利なんだろうけども……!
我々は認知や労力の負荷を下げることを善とした文明を築いてきた。最終的には「絶対的な知能・善」を作って、それをモデルケースもしくはモラルアドバイザーAIとし、それらに「補完」してもらい、言われた通りに生きていくことを選んでしまうことが、我々の究極的な『人間の証明』になるのかもしれないな……(キバヤシ口調)
まあでも、テクノロジーに依存しながらも、その依存先の設計を変えることもできるのが人間なので、その相互性が確立されている以上、別に現状は悪くないとすることができるのも確かだろうか。
▼最終章:慎重で開放的なスタンス
著書の趣旨とは逸れるかもしれないが(本の解釈通りに感想を述べられたことがないので適当を話すが)、「テクノロジーはこのような素晴らしいフィードバックを与えてくれる、しかしテクノロジーに依存するとこのような危険性がある、と感じる倫理観、考える思考能力、それを保ったまま、より良い社会の調和を目指してテクノロジーを使う道を模索しろ」みたいな方向性なのかなと。それを支えるのは、人間のあやふやな『倫理観・道徳観』とやらになるが、この能力も、使われなければ低きに流れる。新しいことを歓迎しながらも、あくまで自分を見失うな、そういうことかなと思って完!