「哲学・思想・倫理」の記事一覧

読書:何のための「教養」か / 桑子敏雄

水色チェックマークのあるタイトル作品のネタバレを含みます

ちくまプリマー新書!今年はちくま系のブランド買いをしてしまっている。
タイトルだけ見ると固い内容だと敬遠されてしまいそうなテーマでも、なんとか厚みの薄い新書にすることによって多くの人に読んでもらおうと工夫しているところが好きなのかもしれん。

何のための「教養」か / 桑子敏雄

哲学の先生が書いた本。著者は東大の哲学科を出て教養を教えてたっぽいので期待が高まるのだが、どうみても権威に阿る人間です。ありがとうございました。ともあれ、本のタイトル通りテーマは「教養は何のためにあるのか?」である。私は基本的に、他者からの影響を受けやすい上に権威に弱い人間なので、その影響を受ける前、つまりこの本を読む前に、「教養とは何か?」について、自分なりにちょっと考えてみることにした。

  • 割と何でも面白がれるようになる(状況がトリガーになって、頭のネットワークで活性化する知識がたくさん出てくるようになる、私はそういう閃きの感覚が好き)、特に本が楽しく読めるようになる
  • 他者・外界の状況には何かしらの背景がある、という認識になり、考えるという工程の道筋を作る
  • 背景を知り、バイアスの自認を前提に置けるようになる
  • アウトプットの質を高められそう
  • 外界を自分の演算装置にすることができそう
  • 自分だけの世界を、人間固有のストーリーという虚構で広くし、壮大さを感じられるようになる?(畏敬の念は心身に良い)
  • なんか頭良い人っぽくみられそう
  • 人との会話で話題は尽きなさそう

こんなところかな。じゃあ読むか、いざ鎌倉!


「何のための教養か?」という問いに対して、著者は「教養とは、人間の根っこを持つこと」にあるという。

昨今、とんがった専門性ばかりが評価されがちだが(金にもなるし)、人間の基礎となる部分、その土台をしっかりさせなければ、選択や方向性の軸もぶれがちになる。

大学で教養を学ぶことについては、かつて縮小傾向にあったのだが、それをよしとしていた文部省が考えを改めたのは、地下鉄オウムサリン事件が起こってからである。この事件は、高学歴で化学における高い専門性を持った人間が犯行に及んだ。高い専門性は社会に影響を与えるものの、それが良いか悪いかは、本当にその人の人間性次第になってしまう。それは良くないよね、教養ってそういうのも含めた人間力の基礎を作る部分だよね(宗教の本質や、人間社会への深い理解を学ぶ一つの手段が教養である)、専門性も大事ではあるが、それだけだと視野狭窄になって人間社会という基盤が疎かになってしまう。教養によって視野を広めよというのが、まず主張の前提にあるっぽい。
その上で、人間の根っこを持つこと、これが「何のための教養か」に対する答えであるという。その木の幹の太さ、枝の方向性、枝の数、葉の付け方、なる花の鮮やかさ、これを左右するのは、根っこがびっしり地面に根を生やしていること、そして強度を持つことにある。花を鮮やかにするためだけに、自身が得た栄養を回してしまっては、その木はすぐに枯れる。しっかりとした根があれば、自ずと全体に栄養が周り、枝が伸び、花が咲き、やがて外界に良い実を残す。そういうことを教えてくれる本だった。

以下メモ。

・著者曰く、アリストテレスは「教養は幸運な時には飾りであるが、不運な時は命綱にある」と言ったと訳することができるという。教養のある人は、よりよい選択をすることによって身を守ることができ、よりよい人生を実現することができる。よい選択をするためには、まず複数の事象からなる選択肢を「これらは選択肢である」として認識できる力が必要であるし、そのうちから思慮深く最善の選択をする、これを支えるのが教養である(ついでに言えば、多分よい目標も持つことができそう)。人類も、個人も、すべて何かしらの選択によってできているから、それらをよい方向に向かわせたければ、思慮深さを身につけるとよい。科学技術の発達は誰しもが望むものであるとされるが、それを扱うのは人間であり、最終的には人類全体の人間性がものをいう。地震大国なのにも関わらず、利益を優先した結果、原発対策を甘くみたしっぺ返しが来たことを忘れてはならない。

・心象風景について。人間は、空間に肉体を配置される、空間的配置にある。そしてその位置を取り囲むものとして風景がある。人間は、その感覚器官によって取り込んだ情報により、自分自身が置かれた環境を認識する(肉体の目で見て、心の眼でも見ている)が、その認識の咀嚼の仕方についても、教養は影響を及ぼす。よい風景を認識し、よい選択ができるようになる。自分の周りの風景がどのようなものであるか、見えるものを変えることができるのである。

・一般教養はリベラルアーツと訳されることが多い。リベラルは自由を意味し、人間を拘束するものからの自由を意味するが、ビジネス系だと、リベラルアーツは経済的自由を得ることというニュアンスで使われがちじゃない?(金持ちの一般常識みたいなこと?)

・「どうも日本人は、思想をファッションのように着替えることが得意なのではないか?(戦中と戦後でコロっと思想を変えたりできる)」とのご指摘。これは完全に私だ……(ストイックという思想のファッション性が好きだし、キリスト教徒ではないのだが、教会での結婚式やお葬式ってかっこいいな〜!ってファッション性を感じがちだし、流行っているビジネス書は読みたくなるし、かと思えば飽きっぽくて見切りをつけるのも早いし)

後半は、教養の実践として、著者が国関係のプロジェクトに携わった話など纏めてあった。新書なのでP180Pくらいの本なのに、色々考えさせられるところのある、良本でした。

読書:知的思考力の本質

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おじいちゃんたちが、おじいちゃんが好きそうな教育や教養についての話をしている……みたいな対談本をパラパラ読んでいたところ、急に「小説の『リング』が賞に落ちたおかげで、賞金1000万円で著作権ごと買い取られずに済み、ドラマ化、映画化、ハリウッド化の権利で今ウハウハ」みたいな話が出てきて盛り上がってきた。エー!?リング・らせんの小説を書いた鈴木光司先生と、ベストセラー翻訳者の竹内薫先生でしたか〜〜!『超圧縮 地球生物全史』、気になってたんですよね〜〜!(媚を売る)(権威に屈するな)

知的思考力の本質 / 鈴木光司・竹内薫

そういうわけで、そういうお二人が「知的思考思考力について考えていこうぜ」というテーマで対談した本。「ウーン?正直言って首肯しかねるな……」みたいな感想と「なるほど!」みたいな相反する感想が行き交う反復幅跳びした。以下、メモ。

・西洋思想は、真善美というような哲学的な問いに始まり、突き止めてゆくと最終的には科学に行き着く傾向にある。これは一神教のエリアであることが関係しているのでは?突き止めれば、必ずそこには一つの真理がある、という前提がある。東洋はというとアニミズム、すべてに霊魂が宿り、それをあるがままに物事を受け入れる。事象に対して「こういうものだ」とただ受け入れ、観察し、外の現象の理由については掘り下げずに終わる。西洋的な価値観に見る理論性と、東洋的な価値観から生じる情緒性、その両極端の狭間にある中道を目指してブランコのように揺らぐことが本懐なのでは?

・また、西洋・東洋に限らず、陰陽(インヤン)的な対は多々ある。男性・女性、右脳・左脳、コト・モノ、肉体・精神。どちらか一つが優れているのではなく、互いに影響し、動かしあい、相互関係の中にある。どちらかが偏ることは、よい状態だと言い難い。

・脳のニューロンとニューロンを繋ぐハブの下り、使われないニューロンは萎む、この辺りは前読んだ『脳の血雨を書き換える』と通じるものがあるな。知識Aと違うジャンルの知識Bがハブで繋がって、ひらめいた!っていう瞬間が私は好きだな。

・フィードバックは学習の本質。間違いの方にこそ、気づきがある。

鈴木「視神経というのは、脳が頭蓋の外に向かって延びていったようなものです。言ってみれば、「外部に飛び出した脳」、恐るべき情報収集器官です。視力を獲得するために、肉体内部の自己組織化に外部からの光が強く作用した。 要するに、内部と外部、 両者の共同作業が必要であったと感じてならないのです。」

知的思考力の本質 P178

以上。

鈴木先生の小説『エッジ』が読みたくなったし、竹内先生翻訳のサイエンス書『超圧縮 地球生物全史』も読まねばなるまい。

自信がないと、何をしたいのか、何ができるのか、何をすればいいのか、全て分からなくなる

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先生、どうか皆の前でほめないで下さい いい子症候群の若者たち / 金間大介

何がきっかけで手に取ったか忘れている……!
この本は、良くも悪くも最近の日本の若者は〜みたいな内容の本、と言いたいところだが、著者は大学教員かつモチベーション研究をしている方で、学生との授業・就活でバチバチに若者と関わってきただけあり、説得力があると感じる内容だった。

私は最近の若者(大学生〜新社会人くらいを想定)の実情を全く知らない。「たぶんInstagramやTickTock、Youtubeのインフルエンサーに影響される世代、まじめをちゃんと装える、道徳観はありそう」くらいのイメージしかないのだが、実際どんなふうに世間から思われてるの?と気になりつつ読み終えた。

著者の調査によると、過剰に「いい子」で居ようとしてしまう、いい子症候群が若者にはあるように見えるらしい。精神科医の名越康文先生が言うところの『過剰適応』ってヤツ?

そのほかにも、「企業には疑いを持つ一方で、SNSやインフルエンサーには影響を受ける」「とにかく目立ちたくない(本のタイトル通り、みんなの前では褒められたくない。しかし、後で二人きりのときに褒められるのは嬉しい)」「意識高い系にはなりたくない(ガツガツ積極的になるのは痛いように見える)」「反応が薄い」「みんなの意見に合わせる、倣う」「予防線、自己防衛に長けている」「劣等感があり、自分に自信がない」「個人の努力や実績で配分を決めるより、ただ万人に平等に均等分配することを選択する割合が高い」「社会貢献を行いたい(ただし献血などではなく、仕事という場を整えてもらった上で、直接誰かに感謝されるようなことをやりたい)」「大人の考えをなんとなく見抜き、大人の『若者に教えてやりたい欲求』をうまく使うなど、合わせることができる」などなどが若者の特徴であるらしい。これは著者も言っている通り、特に悪いことではないように思う。

まず、日本の教育方針は常々、運動会でお手手を繋いでみんなでゴールをするみたいな「横並び」と称されることの多い横社会とも言えるが(同世代のコミュニティ)、社会に出てからはバキバキに明確な縦社会に放り込まれる。その擦り合わせを行う最初の場である「就活」で、急に『個性』とやらを発揮させられ、『競争』が起きる状況下で、戸惑うことも多いようだ。それでも、求人企業が「自主性のある若者が欲しい!」みたいなことを建前上言いつつ、でも「素直な若者のエネルギーを安価に使い倒したい」と思っているのは、基本的に若者たちは見透かしていると言って良いそうだ。エライ〜!!
マジで就活って、いきなりライアーゲームさせられるようなもんだからな。嘘も方便、物は言いよう、とはいうけれど、一回やっただけでメチャクチャ「大人」「社会」「自分」すべてに幻滅するからな。麻痺してからが大人の始まりとも言える。あらかじめそれらを想定できるというのは、とてもかしこいことだと思う。

ちょっと意外だったのが、「今の新入社員は飲み会に参加する」らしい。おや?そうなの?早く帰りたいと思っているのでは?と思ったけど、確かにそうか。私の認識がずいぶん古かったな。目立ちたくないいい子が上司の誘いを断ったりしないし、今の飲み会は暗黙の了解で圧をかけながら『若い女はビールを注げ、ラベルは上にしろ、若い男は場を盛り上げるために恥を晒せ』みたいな飲み会じゃないだろうからな。それなりに新人に目一杯気を使う上司もいるだろうし、上司も「断られるかな〜?」と不安に思っている中明るくイエス!と言ってくれたら株も上がるだろうし、そこまで悪い選択ではないのか(コロナ禍という状況は想定の外に置くとして)

あと、日本の悪い癖に影響されてて、基本的に「あきらかに困っている人を見かけても、その人が外のコミュニティの人であるならば、自発的には声をかけない」が「相手から助けてもらえないか?とお願いされたら、喜んで行う」みたいな傾向があるっぽい。これは令和の日本の若者に限らないのでは?昭和の日本の若者だってそうだったような気もする。また、「ずるいやつには自分が損をしても相手の足を引っ張る、同調できない黒い羊を罰する行動を取る」、いわゆるスパイト行動(前の日記でも取り扱ったやつだ!)も取る傾向にあると。これは……日本人全体がそうだからね……若者のせいというよりは、我々先人の悪い影響を見て育った若者たちの方が被害者というか……と思っていたら、やっぱ著者の方も、この辺は「大人が悪い」とバッサリやっているので安心して読むことができた。

現状維持とはゆるやかに朽ちることを指す現状維持とはゆるやかに朽ちることを指す

まとめると、昨今の若者に対するイメージと、やっぱ就活はクソだな!という認識がなんとなくアップデートされた本だった。リアルでは一言たりとも口に出したくない「最近の若者は○○」だが、この著書の本を読んでいると、「こんな世の中で一生懸命生きてて、昭和でも平成でも令和でも、若者は等しくえらい…!全員伸び代がある!」と励ましてやりたくなる。老婆心ながらに人生の攻略本を授けたい大人の気持ちもわかるが、人生経験を散々積んでるはずの大人が、これから縦社会の経験を積む若者のスタートにケチつけてもしょうがないんだよな。他人事のように言っているが、マジで自分のことだからな、自戒しろよ私……!!

前世は君だった

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言葉を生きる / 池田晶子

前回は『第1章 心はどこに』まで読んだので、今日はその続きから。
▼前回

なぜ自分の内にないものが欲しくなるのか?なぜ自分の内にないものが欲しくなるのか?

『第2章 私とは何か』。テーマがむずかしいんだが?
他人と関わることで自分の輪郭を浮かび上がらせること。自分が何者であるかという個性の存在が、逆説的に己を空虚たらしめ孤独にさせること。役回りを持ち、自己証明をしなければならないと背負い込むこと。様々なところで「己」を前提に世界を認識していることになっているが、しかし、前回でも触れた通りに、自分が世界を認識している以上、世界もまた自分の頭の中にあるものである。他人との関わり合いの中で、その他人から見る己のイメージを感じたとして、しかしそのイメージも自分の認知によるところであれば、自分も他人も無いのかもしれない。
また、ときには、ある対象に感動して我を失い、まるで対象と一体化しているように感じることがある。これは、本の趣旨からはズレた感想になるんだけど、中島卓偉というシンガーが『STAY TOGETHER』という曲を作っていて、(ずっと一緒に生きていきたいと思った)「君の前世は僕だった」という歌詞のくだりを思い出したんだよな。好きな人とは一緒になりたい(そばにいたい、共に在りたい)、憧れている人の真似をしたい(近づきたい、取り入れたい、あなたになりたい)、これらのために自我という個をなくしてもよいと思える、そういうことがあるのであれば、やっぱ「己は世界であること」「自分のうちがわに外の世界が収まっていること」は理屈が通るのでは?

本をめくって数分で何が言いたいのかよくわからなくなってきたので、今日はここまで!てちゅがく、こわくて泣いちゃった。

料理は器に綺麗に盛った方がより美味しく感じる理論

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生命倫理のレッスン-人体改造はどこまで許されるのか?- / 小林亜津子

10代向けのシリーズ・ちくまQブックスから、「人体改造はどこまで許されるのか?」という生命倫理について書かれた本。この本では、テーマとして「美容整形」「スポーツ選手のドーピング」「頭を良くするスマートドラッグ」について触れている。とりあえず先に、このテーマに対する自分なりの意見を簡単にまとめてみた。

「美容整形」…医療行為を超えた、自分をより良くするための改造手術という認識。100%本人の意志で行う分にはアリでは?と思ったけれど、自分の意志が100%なんてことないもんなあ。とはいえ、ドーピングやスマートドラッグに比べれば、忌避感はそれほど無い。歯列矯正も美容整形の一種だからかな。理屈としては問題なさそう。ただ、人間は社会の中で生きているので、周囲の人間の雰囲気次第で大きな齟齬が発生しそう。私個人の倫理的にはOKの部類になるな。美容整形、人間改造の一環として、遺伝子デザインの改造まで行えるようになったら、それはそれでまた考えます。

「スポーツ選手のドーピング」…これはNGの部類かなあ。スポーツは本人の努力は前提として、そのほかに遺伝子や環境、最新知識と金が物を言う世界だとは思うが、健康を過度に脅かすものは法律なりルールなりで規制されているので、それに違反するのは明確にNGでは?ルールに違反することが許容される社会になると人間社会そのものが成り立たないだろ。ただ、どこから「OKなドーピング」になるかは私も曖昧だなあ。カフェインくらいは許してもいいのでは……と言う気持ちもある。カフェインは明示されたルールには違反していないだろうから。しかしそのままだと明示されていない薬とかも後発で出てきそうだし、これがOKなら開発されてしまうし、人間の倫理観で歯止めをかけなくちゃなと慎重にならざるを得ないところだから、ひっくるめてNG判断に寄るのかも。ただ、世間の雰囲気とかが許していそうな範囲のものは、つられて「これは常識的にOKっしょ、コーヒー飲んだくらいなら」と判断をしてしまうと思う。(カフェインを受け付けない体質の人に対して不平等では?って言われたらめんどくせえな…じゃあ一律禁止にします?ってなるかもしれん、それが昨日日記にメモした『「人の得が許せない」みんな仲良く共倒れ「スパイト行動」』と言うものに関わってくるかも)

「頭を良くするスマートドラッグ」…スポーツ選手のドーピングと一緒。

今現在はこんな認識かな。と言うことで、以下は、本を読んで擦り合わせた感想。

「(整形するのは)本人の自由でしょ?」と言う言葉は、著書の中で指摘のとおり、いろんな問題を抱えているかと思う。人は社会の許容の中で生きており、全てが個人の自由として許されるわけではない。もちろん心の中で何を思うかは自由だが、アウトプットするには社会のルールや常識に則っている必要がある(本人の自由で犯罪起こしていいわけがない)。自分の認識を改めるか、常識の方が変わることを期待するか。その擦り合わせをしながら生きることを意識しなければならないのかなあと。美容整形なんてしたかったらしたらいい、化粧が良くて整形がダメな理由ってなんだよ?とは私は思うが、親は「不完全で醜い子供として産んでしまってごめん…」と傷つくかもしれないし、そういう親の気持ちが理解できる人は「親から貰った体で整形するなんて信じられない」と言うのも当然のように思える。その一方で「整形したらみんなが優しくなった。コンプレックスもなくなって心に余裕ができて、人生良くなった」と言う意見もあれば、「そう言うストーリーは美容整形業界の陰謀から与えられたものでは?」「整形で人生全て変わるわけがない、元々あなたの考えがダメで、自分の顔より、自分の考え方や評価してくれる人を変えようとしなかったの?」「整形なんて知らなかった、騙されたと思われても仕方ない」「整形すればなんとかなるという風潮も困る」ともなるだろう。

スポーツのドーピングについては、著書の中にあったんだけど、かつてオリンピックでロシアが女性選手に男性ホルモン等を投与することによってメダルを大量獲得させていたことがあったそう。オリンピックに出るような若い選手(未成年)はそのことを知らず、大会が終わった後に分かり、男性ホルモンで人体が変わってしまって性別変更を余儀なくされるみたいなこともあったよう。「上の立場から選手にドーピングを強要することを可能にする」「スポーツ大会が科学者たちの薬の効力のお披露目大会になる」「自分の実力で取ったと思ったメダルが薬の力であると知った時の選手の無力感、後の潰しの効かなさ」「人体を勝手に改造させられる」と言うような、様々な記述があった。言われてみれば、これは本当にそう。ちゃんと考えれば似たような答えは出たと思うので、想像力をコントロールしなければならないと反省しました。

スポーツは本人の努力以外の要素もある厳しい世界だとは思うけれど、日々トレーニングを頑張ったという過程も込みで試合を見ているわけだもんね…と思った時に、ふと「スポーツで過程というストーリーは重要な要素だけど、美容ではそこまで過程は重要じゃないな?対外的には、生まれつきカワイイことがよしとされるのでは?いや、スポーツも生まれ持った才能の無双が見たい人もいるか?」とも、ちょっと考えた。これはスポーツと美容、それぞれの業界の戦略に寄るものなのかもしれないな。

最後に、このように私たちは「より強く、美しく、優れたものであろうとする」のだけど、同時にそのことは「私たちが社会に生きづらさを感じる理由と深く関わっている」と著書の中にあり、これは本当にそうなんだよな……と頷いてしまった。美しくて、強くて、優れており、若くて、金があって、優しくて、人徳があり、誠実さと道徳性を持つ、みたいな完全体には果てがないのよな。自分と他人を相対的に考えることが生物としてのベースなのに、今は比較対象が多すぎる。そう簡単に答えが出せるテーマではなかったが、ちゃんと考える機会があって良かったと思う。