昨日、行動を起こさず、持続する力を失いつつある自分と戦っていたので、とりあえず読むことにした。タイトル通り、モチベーションの心理学についてあれこれ見解を述べている本なのだが、この手の本は散々読んできた覚えがあるからか、そんなに期待しないで読んでいたんだけど、これは結構面白かったな。
20世紀の半、動物はなぜそれを成そうとするのか?という問いに対し、生きるため・繁殖するためというのがそれまでの定説だったんだけど、アカゲザルでもパズルを知的に楽しむことが分かって以来、それがひっくり返ったことがあったらしい。アカゲザルがパズルを解いても、特に繁殖に有利になるわけでもないし、生きることとはあまり関係がない(飼われている環境だし、人間より知的レベルが生存に直結しない)。だから、生存欲求に基づく動機ではない。外界からの罰や報酬があって、それと紐づいているわけでもない。なら、なぜアカゲザルはこんなにも熱心にパズルを解いているのか?課題に取り組むこと自体が、彼らの内発的報酬、つまり内的なモチベーションになっているのでは?というような説明から始まる。
これだけでも面白いんだけど、うまくパズルが解けたら報酬を与える等をしてみれば、もしかしたらもっとパズルの成績が上がるのでは?と試した結果、モチベーションやパズルの成功率が下がったりしたらしい。古来からの定説である、飴と鞭は効果があるのか?ということに関しては、「飴と鞭は、特に効果が無い(それどころかモチベーションを下げることもある)」ということになる様子。
これは、パズルに取り組むこと自体が、彼らの内発的報酬だったのに、結果に紐付けた「ご褒美」という報酬行為が、内的モチベーション(課題自体が「目的」であり報酬だった)を外的モチベーションに変えてしまった(課題はご褒美という報酬を得るための「手段」に成り下がった)ことが原因と思われる。この飴と鞭は、人間に対しての「褒めて伸ばす」や「叱ってやらせる」のパターンとなることもある。ここで肝となるのが、人間のモチベーションの根底にあると思われる「自律性(自己決定権)への欲求」「自らの有能さへの欲求」の二つ。
誰かを褒めて伸ばそうとした場合は、その誰かの「有能さへの欲求」を刺激することで能力を伸ばそうとする、ということになるのだが、褒める相手に対する信用度がそもそもなかったすると「こいつは褒めることで自分をコントロールしようとしているな」と勘繰って「自律性(自己決定権)への欲求」にダメージが入るので、モチベーションが下がる、みたいなことらしい。メチャクチャ分かる……。
大人が子供を褒めたり叱ったりして伸ばすというのも、確かに手段の一つではあるのだが、モチベーションを外から操作しようとするのは基本的に諦めたほうが良く、当人の自発的なモチベーションに任せ(セルフコントロールが損なわれない状態)、自分はただサポートに徹すると良いということなのかな。
大人になると、子供を簡単にコントロールする方法はいくらでも思いつくので(褒める、叱る、プレッシャーをかける、罰を与える、恥をかかせる)、楽な手段を使ってしまいがちだが、この手の手段は考えて行わないと子供から自律感を奪う。自分がコントロールできないことについては、(アドラーでいう外を変えることは諦める、という意味合いで)「自分ではコントロールできない」という無気力感を学習して、モチベーションが著しく下がってしまう。うまくサポートするには、まず子供から信用される人間であること、その上で自律感を奪わないことが前提となり、ほどよく「有能であることへの欲求」を満たす(「前より成績が上がっているね、勉強時間も増やしたもんね」など、比較を当人の過去と現在に、具体的な方法や努力を褒めて、的確なフィードバックを与える)、と。
私も人生において結構「自律性(自己決定権)への欲求」を重んじるほうなので、めちゃめちゃ納得してしまった。「自らの有能さへの欲求」についても、言われてみればなんとなく分かる。本の中の例えで出てきたように、レベルの低い学校で上位存在でいることについては有能感があるだろうし、レベルの高い学校で下位存在であることは有能感は損なわれる。有能感の有無はモチベーションに結構影響を与える(もちろん、その劣等感をバネにして頑張るという人もいるだろうが、イメージ的には少なさそう)。4月生まれのスポーツ選手が多いのは、小さい頃から体が育ち、スポーツや勉強もでき、他の子と比べても有能感がキープできたから、そのスポーツに対する興味や技能の習得を持ち続けるモチベーションが維持できていたのでは、みたいな話も面白かった。
よし、私も今までの「自律性(自己決定権)への欲求」をキープしつつ、ネットで有能な人を見て己の比較しすぎないよう、「自らの有能さへの欲求」を傷つけないように生きていこう!
発想がもうルサンチマンなのよ。