晴れた平日に休みをキメられることになり、キャッキャ喜びながら全ての予定を詰め込んだら、案の定夕方前には体力が尽きていた。でも朝も散歩に出かけられたし、久しぶりにゆっくり外食できたし、梅雨でカビが生えてきたっぽい布団の打ち直しも手配したし、洗濯機も3回回せたから良しとする。
外食をした昼は一品一品出てくるタイプのランチを頼んだんだけど、前菜、スープときてメインが出てくる段階で既に腹5割まで満腹感が来ていたのは新鮮だった。普段自炊しているんだけど、なんかこう喫茶喫飯ができてないというか、いつもの昼食をぱぱっと作って早食いで終わり、みたいな悪い習慣ができてしまっていることに気付かされる。自炊ではなくてお店で食べるというのは、一品一品を味わう時間が与えられるってこともあるけれど、店の雰囲気だったり客の笑い話だったりの全てをひっくるめた情報量が、普段と比べて格段に多いことで満腹感・満足感にも影響するんだろうな。やっぱたまには外食しよう。
この先生のお名前、絶対どこかで見たぞ…!と思って手に取った。ググってみたところかの有名な『思考の整理学』を書かれていた文学の先生で、道理で見たことがあるはずだよ。私も数年前に読んだことある。
昭和の昔にはNHKラジオで『君の名は』という番組があって、毎回「忘却とは忘れ去ることなり。忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」というフレーズが冒頭であったらしい。新海誠監督〜?
ともあれ、記憶力がいいことは頭のいいことだというのが世間の定説で、学校教育では一生懸命にものを覚えさせようとする。しかし、忘却ということは決して悪いものではない、という先生の主張から始まる本。
忘却というのは、脳の中に溜まったゴミを捨てる行為である。呼吸と同じで、古い空気を吐いた分だけ、新鮮な空気が吸える。食事と同じで、超加工食品だけ取ってはいけない。たまには胃を空っぽにする。大事なこと忘れてしまうのは、大事なこと以外のものも詰め込みすぎているから溢れてゆく。思い出が美化されてゆくのは、忘却によって不要な情報が削ぎ落とされてゆき、思い出したいものを思い出すサイクルができるから。全ての人間が全てを覚えていたら、そこに個性なんてない。何を忘れるかによって個性は現れる。つまり、創造の前には破壊が必要…ってコト!?みたいな感想が湧く。まあでも、先生がおっしゃる通りだとは思う。「成功したことは覚え、失敗したことは忘れることが肝要」というようなことも書かれているが、これは漢字の書き取りをやっていると共感できちゃう。漢字をうろ覚えで書いて、答えを見て間違っていたら、そのうろ覚えで書いた文字は忘れないとまた間違えるし、悩む。頭で正解を覚えるというのもいいけれど、体のほうが記憶していて、勝手に反射的にすらっと書いてくれるならこんなに助かることない。健全な人間活動に際し、記憶と忘却は陰陽の関係だというのは頷ける。
以前読んだ『よい休憩』でもあったけど、やっぱ頭への詰め込み過ぎはダメで、適度に休憩してインプットを断ち、忘れることを受け入れ、マジで忘れたくないことはもう一度復習するなどして刻みつける。その精査は、たぶん森博嗣先生の小説であったような「天才は答えを求めない。計算式を持つ」ってやつなんだろうな。解答や知識を覚えるより、考え方の回路自体を精査するほうが、何倍も応用が効く、みたいな。
今日はここまで!(日中遊び疲れて疲労困憊)