魔法の赤い靴を履いた踊り子のように、強迫観念に迫られて書かずにはいられない「ハイパーグラフィア」、書きたいのに書けない「ライターズブロック」という二つの対極する病について、脳はどのように創造性を生み出しているのかということについた書かれた本。へーそんなのがあるんだと思って流し読みしていたが、毎日日記を書こうとしていて、メモに殴り書きすることが好きな私の行動もハイパーグラフィアにちょっと当てはまるかもしれない。そして、書きたいのに書けないライターズブロックも当てはまる。しかし、医者である著者と、その著者が見てきた患者たちのハイパーグラフィアには負ける。何十時間も内省をノートに認めるなんてどうかしてるし、この本のもちょっと引く厚みと文章の量だ。そこまで何かを書きたいと思ったことはない。ヤバい、そんなにこの本の内容に興味ないかもしれない、と薄々思いながら読み進めたのだが、いくつか面白いポイントがあった。
・書きたい・書けない、どちらも同じ脳の部位(側頭葉)の影響である。いずれもコミュニケーションをしたいという欲求になる。
・「美はそれ自体のコピーを促す」のではないかという一文(P12)。女性の美しい顔に感動したレオナルド・ダ・ヴィンチが、その美を捉えようとデッサンを繰り返す。愛する人の子供が欲しい。その意味に見出した美の通りに生きたい。本題とは逸れるんだけど、この模写を行う段階で、インプット・アウトプットで自分の心身に刻もうとする、そのサイクルを回したいと思える情動みたいなものがあるのかもと思った。私が「自分の理想通りの規則正しい生活を送りたい」という考えも、理想美をコピーしたいというのに当てはまるなあと。
・余裕のある暮らしをしていると文章は書けなさそう。忙しい方が返って生産量は上がる。これはなんか分かる気がする。何かに急かされないと書かないものってあるしな。毎日が夏休みだったら、毎日楽しいことをする。わざわざ苦しんで何か書こうとなんかしない。仕事は忙しい人に頼め、みたいなもんか。ギチギチに何か動いている人の方が、回転が早いというのはありそう。
・もう一個「グラフォマニア」というのがあって、これは単に書きたくて書いてしまう「ハイパーグラフィア」と違い、本を世に出したい、見知らぬ読者に読まれたい、だから書くというものらしい。ネットが普及する前に作られた言葉だそうだが、今この世に溢れているのはこれだな。
内容の密度に気圧されてしまい、途中からパラ読みになってしまってこの本を通読できなかった。また興味が湧いたら読むことだろう。読むんじゃないかな。未来の私に頼んだところで、終わりとする。