古典SF小説『われはロボット』を読んだ後に、じゃあ人間ってなんだよの流れで人体関係の本を読もうかな〜と予定していたので、何冊かそれらしい本積んでいたのだが、これがまたどの本も全く頭の中に内容が入ってこない。嘘でしょ?いやでも、シュレディンガーの猫で超絶有名なこの博士の本なら……!と望みをかけて読み進めたのだが、これがまた内容が全然頭に入らない。そんなあ。生命とは何か、ということを、哲学ではなく物理の面から捉えた、名著な雰囲気を感じることはできるのだが、意識が散漫になり、「なんかちょいちょい聞いたことある話だな……」とぼんやりした解釈になってしまうのであった。しかしそれも、最後の章に近づいた瞬間いきなり目に飛び込んできた『生物体は「負のエントロピー」を食べて生きている』の一文で急に面白くなってしまった。負のエントロピー!?!?!?シュレディンガーの猫、エントロピー、オタクが好きな言葉が一気に2つも揃ってしまった。しかも負……なんか悪っぽいやつだ。気持ち、好奇心を取り戻して読み進める。
以下、ふんわりしたメモ。(正しい解釈ではない)
- エントロピーとは、「無秩序の度合いを示す物理量」のことで、自然は常に秩序から無秩序へ向かう。(よく部屋は放っておけば散らかると言われるやつか?)
- 熱力学におけるエントロピーと、熱は必ず高いものから低いものへと伝わっていく(真夏の部屋に冷たい水を放置しておくと、いずれ水はぬるくなる)。
- 人の死の状態とは正のエントロピーが最大になることとも言える(死体になれば自分で熱を生み出すこともなくなるので、物理的には環境の温度と同じになってゆくし、土に還ったりして形も保てなくなる)。
- 生物体も、常にエントロピーが増大し続けている。(秩序から無秩序へ向かう)
- このエントロピーが最大になる状態(死)を避けるために、生物は負のエントロピーを食べて生きる(なんか調べたところ負(マイナス)のエントロピーは存在しないっぽいので、負(ネガティブ)の方の比喩的な表現なのだろう)
- 無秩序(死)の最大に到達しないよう、秩序(負のエントロピー)を取り入れる。マイナスのエントロピーはないらしいので、秩序ではなく、エントロピーの小さい無秩序を取り込んで混ぜ、最大の値から薄めることなのかな?(コーヒーにミルクを入れるとカフェオレになって、もうコーヒーとミルクに戻す、分離することはできないが、カフェオレにコーヒーを入れ続ければ薄めることはできる)
- 生物体は環境から「秩序」を引き出すことにより維持されている。
- 人は肉を食べ、ばらばらに分解し(一回エントロピーを大きくし)、それを自分の中に取り込んで部品とする(エントロピーを小さくする)、そして生命(秩序)を維持しようとする。
たぶん色々解釈間違っているだろうが、それでも面白い。
この本を読む前、風呂に入っている時にぼんやりと考えていたのが『自由の定義』である。私はこれについて、ここ数年は森博嗣先生の『自由をつくる 自在に生きる』を読んで「自由=自分の思い通りになること(剣豪が自在に刀を振るうニュアンス)」だと仮置きしていたんだけど、最近は「私の感覚だと自由=自律がニュアンス的に近いかも!」と思い直していた。つまり、なりたい理想像や、成したいことがまずあって、それを叶えるために、色々考えたり計画を立てて行動をすることができる状態である。この時、一番の問題はセルフコントロール能力がクソ雑魚なことであって、今日は眠いからいいか……とか、なんか習慣にしたいことがあったような……とかで忘れてしまい、維持することが出来ない。そうではなく、ちゃんと目的を覚えていて、そのために過不足のない行動が都度できること、なりたい型であること、これが私の考える自由=自律では?みたいな話なのだが、この自律をエントロピーの小さい方、秩序で考えるのはどうだろう。生物の死が無秩序であるなら、生命とはそれを秩序の方に傾けることである。外界の無秩序ではなく秩序(無秩序の小さい方)を取り込み、咀嚼した上で自分なりの秩序を維持することが、その個が生きているといえることなのでは、というところまで考えた。こんな翌朝になって見直したら転がりたくなるような話が『生物体は「負のエントロピー」を食べて生きている』の一文だけで次々に脳裏に湧いてくるのだから、っぱ名著よ。まあこの本を書かれたのがだいぶ昔(1944年)なので、多分現代で否定されている前提もあったり、その上で私の偏見メガネで歪んだ解釈をしているので、1年後には違う感想が出てくるかなという気もする。次はちゃんと最初から真面目に読むことにします。
結局のところ秩序→無秩序は不可逆性で、秩序に近づけようとして秩序を取り込み、無秩序を外に捨てるという行為は、単に場所を移動させただけなので、個人主義というか、悪あがきなのかもしれない。