パーフェクトハーモニーってまだ通じるのかな
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この陽気、流石にユニクロの超極暖の上にヒートテックタートルネックを着て、その上にフリースジャケットを羽織るという厳重な装備はやめました。春用の服に変えたら、体が驚くほど軽く感じる。そろそろ衣替えしよう。
ハーモニー / 伊藤 計劃
昨日の続きから一気に読み通した。ネタバレ。
なるほどこういう終わり方。自分を律することのすべてを外注にすると人は本当ダメになるというのは同意だなあ。また、意志というのはモジュールの集合体であって一貫性はないというモジュール理論?モジュール説?は、『パレオな男』の記事で読んだことがある。『だれもが偽善者になる本当の理由』という本に載っている、進化心理学の学者が提唱した説らしい。そのモジュールの不協和音を制御した結果意志が消えたのなら、このような合理的幸せが世界に訪れるだろう、ということなのかな。うーん、そんなにうまくいくか?我々人間は、そのモジュールの不協和音をうまく悪用して言語習得やバイアス、認知が成り立ってるのではないか?とは考えるものの、終わり方には「おおっ」と意外性を感じたので、小説として面白かった。
この終わりにたどり着くまでに引っかかったのが、多用されるHTMLタグ(プライベートでもタグ見たくない)、いかにも創作世界のアニマっぽい女の子の作り(私は感情移入しやすい方なのだが、微妙に受け付けなくて、今回は没入感なかった)。あと途中、虐殺器官がどうのこうのという話が出て、著書の方は『虐殺器官』という小説で有名になった方だということは知っていたため、「しまったこれは虐殺器官の続編か?読む順番間違えた?」と不安になったものの、読み終わってみれば特に問題なかったように感じたので、これはノーカンとしよう。
ともあれ、この小説は面白かったので、虐殺器官も買ってみようかなあ。
ためらいを焼き尽くせ!
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最近はキャラソン文化が廃れてきていると聞き、危機感を覚えます。鬼滅の刃キャラソンまだ出てないって本当なの?KOFの草薙京だってキャラソン歌ってたんだから、もうちょっとバンバン歌ってくれてもいいんだよ。とは思いつつ、まあ本業が歌手でもないのに歌わされるのがデフォルトの世の中でも困ったことが起きそうなので、時でも流しておくか。
読書
- ハーモニー / 伊藤 計劃
福祉厚生が行き過ぎてディストピアになってしまった世界観のSF小説。そういうの話が好きなので読んでみようと思ったんだったかな。とにかく善意の検閲が多い世界らしく、暴力やいじめすらも日常やメディアから消去されつつあるので、あまりに取り返しのつかなくなってしまった終末の世界観がある。その手のものを規制すると大半の歴史が意味をなさなくなるし、歴史が意味をなさないと、色々……色々、この先人間をやっていくのが難しすぎないか?考える題材を奪ったら人は猿に戻らんか?多分そのうち共産主義とか復活するんじゃないかな、という偏見がよぎる。本日20%くらいまで読み進めたが、今のところ、未来の末期感よりも、心中を企てた女の子3人のクソデカ感情の行方の方がインパクト強い感じ。
- 絶対BLになる世界VS絶対BLになりたくない男3 / 紺吉
ギャグ漫画。ハーモニーの予期せぬ激重クソデカ感情で偏ったバランスを、軽めの予定調和のBLで調整できるの本当にありがたい。今回も面白かった。次巻も買います。
- 知ってるつもり 無知の科学 / スティーブン スローマン, フィリップ ファーンバック
前回の途中からの続き。だんだん頭に入らなくなってきた。私がこの『第七章テクノロジーを使って考える』の話に興味がなさすぎる。次の章にあったワクチン接種に対する無理解のくだりは「これ、損をしたくないと思って結果損をしてしまうやつだな……」と連日続けてのフックがあって面白かったです。
ただまあ、「こんなにも人は知っているつもりで知らないんだよという話でお腹いっぱいなのに、これと同じ論旨があと50%も?」という懸念が頭を過ぎるようになり、私の堪え性のなさが露呈し始めてきている。
シーナの日だ!と思ったが手元に本がない
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読書 ※ネタバレ
- 知ってるつもり 無知の科学 / スティーブン スローマン, フィリップ ファーンバック
前回の途中から続き。進捗は30%くらい。iPhoneでKindle本を読み上げて貰いながら散歩した。
要約メモ。
・認知や思考は、頭だけではなく、外部の道具を使い、手を動かした方がよい。例えば計算をする際、頭の中だけで行うよりも、紙に書いたほうが簡単だ。思考は頭の中のみならず、物理世界を使った方が、一般的にはうまくいく。外部からの手助けがあれば、人はかなり無知ではなくなる。身体を含めた身の回りの世界が、外部の記憶装置・支援装置の役割を果たしてくれることで、それらがない時よりずっと賢くなる。(他人とのコミュニケーションで得られる気づきなども含める)
・人は集団意識の中で、他者や環境に蓄積された知識をベースに(無意識に)依存しながら生きているので、自分の頭でわかっているつもりの大部分は表面的なものである。一般的に人はコミュニティに属し、知識の認知的分担作業をコミュニティ全体で割り振っているのだが。(私は水洗トイレの構造はわからないが、気にしたこともないし、深く尋ねられない以上は知らないつもりもない)
- 「便利」は人を不幸にする / 佐倉 統
東大教授で進化学者の方の著書。
私は現時点で、基本的に「大きな幸福感は諦める、できるだけ目に見える不幸は避ける、ストレスはある程度まで必要として受け入れる」と言う方針なので、どれくらいの便利さでどれくらい不幸になるのかなと気になった。前提として、便利なことは善だと考えているのだけど(水汲みで一日費やすみたいな暮らししたくないし)、買い物が便利になりすぎた結果、検討不足で頭が軽くなってバカな買い物しちゃうみたいな本を昨日読んだばっかりだったので(9割の買い物は不要)、とりあえず読んでみることにした……と思う。話を進めるときの一人称が「ぼく」なのがメチャメチャ引っかかって、内容がいまいち頭に入ってこなかった。
『人は便利さを追求しすぎて技術が行き過ぎ、その技術の危機管理等の把握が個人にも社会にもできなくなってきているのではないか?(津波で被害のあった原発が代表例)』みたいな主張には「確かにもう誰が認識できる範囲を超えとるのよ現代技術は……特に原発はあんなヤバいもん誰か厳重な対策取っとるやろ思ってた(あっ知ってるつもりの進研ゼミで出てきたやつだ!)」となった。うーん。便利すぎると認知と知能が低下するみたいな話じゃなくて、そう言う意味での不幸という話、だろうか。ちょっと途中で飛ばし読みしてしまった。
でもまあ、かといって我々は便利さやその追求を失うわけにもいかないだろうし、多様性というムーブを終わらせる目処は立たないし(多様性って要するに情報過多だし、自分が認識できる範囲に事象が収まらなくなる代わりに、理解ではなくて許容という形で存在を許すことなんじゃないかと考えている)、まあこのエラーにまたエラーを積み重ねると寿命ってことになって死ぬのは生物も同じ仕組みだから、それで諦めるか……いや諦めちゃダメだな、どうしたものかな……と途方に暮れる感じは残る。このとっかかりを残しておくことしかできない。
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読書
- 9割の買い物は不要である 行動経済学でわかる「得する人・損する人」 / 橋本之克
『9〜10割はなんとか』みたいな主題の本は、あまり当てにして読んだことがないが(『9〜10割はなんとか』系の本は9〜10割当てにならない説を提唱している)、これは面白かった。とは言いつつも、その面白さの半分は「これ、進研ゼミで出てきたところだ!」という喜びによるところなのだが(このあたり昔『ファスト&スロー』で読んだことあるなとか、このあたりダン・アリエリーの著書で読んだことあるなとか、相変わらずシーナ・アイエンガーは良いこと言うなとか、この例え今まで500回くらい見たなとか)、かつての私が進研ゼミしたところがいい感じに忘れられていることもあって、読みやすくまとまってよかった。
以下、眠い頭で解釈したときのメモ。(本で書かれていたこととは違うかもしれない)
- 支払いが簡単で便利で早くなるということは、その分お金を使っている感覚が欠如することであり、かつ検討する時間も不足する。
- 買わなきゃ損かもと思った時点で損失回避が働いている、お金を節約するチャンスが目の前にあり、逃す選択肢が取れなくなる。後悔をしたくないから、後悔の回避行動として買い物をする。損をしたくないと思う人ほど損をしている。
- 情報が多すぎると処理しきれずに未整理の混乱状態に陥るし、バイアスがある以上ネットで情報を探しても偏り続けるし、そもそも脳が疲れていたり悩んでいると、単純な誘惑に本能が負けやすくなる。
- 選択肢を減らして選択する回数自体も減らすのが良い。
本で紹介されていたシーナ・アイエンガーの「選択は創造プロセスである」の言葉を見て、もう一度『選択の科学』を読み直したくなった。
エウレーカ
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ふとした瞬間に、自分の中にある無数の知識の点と点が、思わぬ線で繋がる瞬間がある。それがひらめきだったり、直感だったりと言われるもので、「これってこういうことでは?」と解釈が言語化され、全く予想もしてなかった人生の伏線が回収されるということを楽しみにしている。私の場合、その現象が起きるときは、本を読んでいたり散歩をしているときに起きることが多い。つまり大抵は独りでいるときに感じる喜びだ。昔から、寂しいという感情に浸ることはあまりなく、孤独には強い方だと思い込んでいるのが幸いして、あまり人とは直接的に関わらずに済むよう暮らしているのだが、この暮らし方はときどき悩ましい。自分だけの材料をこねくり回しているだけでは、どうにもならない類の閃きがあるのではないか、と思うからだ。まあ普段読んでいる本も他人が書いているものだし、思考の言語化は外界あっての学びの成果なので、普段も自分だけの力で何かエウレカしている訳ではないのだが、対談本などを読んでいたりすると、その会話で互いに自分の点と他人の点を線で繋げているのを見ると羨ましく思う。というところまで考えたところで、それが世間一般の普通の会話という流れの成果の一種なのでは?と思ってしまった。やっぱ一人で暮らしてるとダメかもしれない。今年の休暇は実家に帰ります。
何かと何かの知識が言語化されて繋がる直感的な閃きのために、他人から離れて本と交わり、たまには本を置いて他人と交わる。それも消費材料にするのではなくて、互いに何かを与え返すことを念頭におく。気をつけてみようと思いました。