「2022年5月」の記事一覧

じ、ジバンシィ、オートリード……(氷を閉じ込めた炎、氷を溶かす炎)

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ジャンプを見るのが精一杯の1日だった。そんな日もある。

週刊少年ジャンプ 2022年24号

呪術廻戦184話。な、なにーっ!?今まで読んでいたエロマンガ(CR私鉄純愛列車)は!?今週もトチ狂ったパチンコ領域が展開していると思ってたから、急なパンダと鹿紫雲くんでちょっと困惑してしまったと言いたいところだが、よく考えたら先週の方が余程困惑していたな。CR私鉄純愛列車……何??今週も面白かった。鹿紫雲くん、顔立ちからか五条家っぽいと世間で言われているようで、なんの術式か気になっていたのだが、電気タイプか。菅原の雷とかなのかな。パンダは殺さないでもろて……。そして、呪術廻戦0のDVDの発売日が決まったようで、おめでたい。ジャンプを見た段階では「豪華版安いな…」と思っていたのに、昼頃には各々の法人が独自につける特典の情報でツイッターが賑わっており、もう豪華版を何店舗買うかに話がすり替わっとるのよ。こわ。私はどこで買おうかな。

僕とロボコ88話。サイドエフェクトからのベイルアウトに笑っちゃった。

僕のヒーローアカデミアNo.352。アンデラの地獄の後に、また地獄かもしれない漫画を読んで私のメンタルは大丈夫か?と一瞬心配したが、決着のフェイズでした。ウウッ。

また滅びかけた世界の物語を手に取ってる!

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セリー / 森泉 岳

小説っぽい表紙だが漫画。おそらく外の世界の人間は大半が滅んでいるのかな、と推察できる設定で、沢山の本に囲まれて過ごす、一人の男・カケルと女型のロボット・セリーの話。少女終末旅行といい、私は本当に終わった世界が好きなんだな。どんな性癖だ。
最初に出てきた男の寿命と比べてもセリーは長い間稼働が可能で、やがて時代は変わりゆく。変わりゆく中にあっても、セリーにはかつてのメモリーが残っており、男と本の記憶が詰まっていた。いつの時代か、子供に読み聞かせをするようになったセリーはこういった。「わたしの中に大聖堂がある」。
滅びかけた世界と読書が好きな私には、設定がストレートにヒットして、とてもよかった。また、日々男に対して本の読み聞かせるをするセリー、なんかいいな〜羨ましいな〜と思ったのだが、よくよく考えてみれば、私も日々Kindle本をSiriちゃんに読み上げてもらっているので、大差なかったな。サンキュー、Apple。


最近は人参ときゅうりのスティックを間食がわりに食うことが多く、そのため咀嚼のしすぎか顎周りに疲労感を感じており、咀嚼についてググってみたところ、UHA味覚糖のサイトに辿り着いた。

サイトを開くとわかるのだが、ものすごい『いらすとや』の圧。もう日本は骨の髄まで『いらすとや』に乗っ取られとんのよ、企業なんだから予算かけてイラストレーター雇ってもいいだろうに、あれでも『いらすとや』でも複数素材を使うとロイヤリティ契約が発生するんだけ?と一瞬にしてあれこれ考えてしまったが、なんか見慣れた感じから、結局サイトが見やすいんだよな。行政でもめちゃくちゃ使っとるし、フォーマットとして親しみの馴染み方が半端ないのよ。目新しい感は全くないが、もうこれはそういう文化になったんだなあ。
まあただ、どうでもいいようなチラシ広告にいらすとやが使われることが多いので(※個人の感想)、そのせいか反射的に目が滑ってしまった。価値のないこと書いてるんだろうなみたいな思い込みが自動的に働くというか、サイトは見やすいのだが、脳直で数秒見て脳直で閉じてしまった。いらすとやもUHA味覚糖も、全然何も悪くないのに……!


音楽についてはサブスクではなく1曲1曲買い切る派なので、代償として新しい曲に疎いのだが、最近iTunesのランキングを流し聞きしていて「お!」と思ったものがあったので3曲ほど買いました。

  • 心という名の不可解 / Ado
  • 残響散歌 / Amer
  • 朝が来る / Amer

Adoは「うっせぇわ」の歌い手というイメージがぼんやりあっただけなんだけど、『心という名の不可解』のサンプル聞いたら、メチャメチャ骨太に歌うじゃん!好きだな。→コキーン(iPhone課金音)
『残響散歌』めっちゃいいじゃん!鬼滅のOP曲で、こっちの『朝が来る』はED曲?ヴァンパイアっぽいじゃん!一緒に買っちゃお→コキコキーン(iPhone課金音)


最近、少子化についての記事が気になることが多いので、メモ。

少子化の原因は、夫婦となる男女に収入が足りないこと(家族を増やすリソースが足りないこと)が主な原因なのではないか?と言う問題提起もあるが、基本的に既婚者の出生率は横ばいであるらしい。と言うことは、結婚してしまえば、世帯収入が低くても子供の出生率には問題がない(育てていく上で苦労はあるかもしれない。しかし貧困国は割と子供を沢山産むので、収入の低さ=出生率の低さではなさそう)。問題があるのは生涯未婚率、こちらの方ではないか?と言う話を見た。
なるほど。結婚しちゃえばなんだかんだ言って子供を産んでくれる。問題は、まず結婚自体が減っていること。子供を産まない理由はいくらでも考えられるが、そもそも全体として結婚をしない人の割合が増えつつあるし、もっといえば異性と恋仲になること自体も減りつつあるのだから、根本はそこだと。まあ確かに今の時代、恋愛に代わる娯楽はいくらでもあるもんなあ。自由と平等の名の下に、社会から社会性を強要されなくなり、楽園になればなるほど、人は自分だけを見る幸福を手に入れるのかもしれない。ネズミの楽園実験、ユニバース25の動画で見たやつだな。
そして、よき世の中にいれば、その中にある嫌なことは、とてもよく目に付く。子供が生まれること自体はとてもいいことだと思うが、高齢化社会を支えるために自分の子供に生まれてきて欲しいわけではない、という解釈を一度してしまえば、ずっと悪い方の解釈が頭をよぎることになるだろう。

そこからちょっと話は逸れるんだけれども、犬や猫を飼うとき、大半は去勢する。それがマナーとされているからだ。繁殖能力のない飼育用の犬猫だが、そうなってくると、流石にそれだけでは種をつなげることはできない。だから繁殖用の犬猫は別にいて、そこで増やして市場に出回り、経済になる。乳牛や食用豚も同じような理屈で、繁殖は人間のコントロール下にある。逆にいえば、人間のコントロールなしではその種はもう存続できず、自力では生きていけない品種に改悪されつつある。人間用食糧として種を搾取する。人間に飼われた方が幸せだ、と言えるような存在に作り替えており、それをペットと呼んで、愛玩用として存在を搾取する。これ自体については、日々豚肉は食うし、私も猫飼ってみたいなーとは思うので、申し訳なく思いつつも意識的にスルーしているのだが、なんだろう、やっぱ人間は繁殖をコントロールできないこと自体を恐れる傾向にあるのかな。(この辺りはTwitterで見た話を元にしているのでソースは曖昧)

経済市場のために、子供、納税者、猫、犬、豚、鶏、それらが『潤沢』にある状態が望ましいと思うのは、根本的に人間は自分以外を消費の対象に見る視点があって、より良い環境のためにコントロールしていきたいんだろうな(とても当たり前のことだと思う)。出典を確かめていない話を前提にしているので、まあ多分すぐに考えは変わるだろうが、少子化って、やっぱ世界がより善くなったために種族は崩れるのだなあ……つまり、これも『世界が滅びかける物語』なのでは?と思いました。(また性癖の話してる!)

僕と契約して秩序をもたらしてよ!

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生命とは何か-物理的にみた生細胞 / エルヴィン・シュレーディンガー

古典SF小説『われはロボット』を読んだ後に、じゃあ人間ってなんだよの流れで人体関係の本を読もうかな〜と予定していたので、何冊かそれらしい本積んでいたのだが、これがまたどの本も全く頭の中に内容が入ってこない。嘘でしょ?いやでも、シュレディンガーの猫で超絶有名なこの博士の本なら……!と望みをかけて読み進めたのだが、これがまた内容が全然頭に入らない。そんなあ。生命とは何か、ということを、哲学ではなく物理の面から捉えた、名著な雰囲気を感じることはできるのだが、意識が散漫になり、「なんかちょいちょい聞いたことある話だな……」とぼんやりした解釈になってしまうのであった。しかしそれも、最後の章に近づいた瞬間いきなり目に飛び込んできた『生物体は「負のエントロピー」を食べて生きている』の一文で急に面白くなってしまった。負のエントロピー!?!?!?シュレディンガーの猫、エントロピー、オタクが好きな言葉が一気に2つも揃ってしまった。しかも負……なんか悪っぽいやつだ。気持ち、好奇心を取り戻して読み進める。

以下、ふんわりしたメモ。(正しい解釈ではない)

  • エントロピーとは、「無秩序の度合いを示す物理量」のことで、自然は常に秩序から無秩序へ向かう。(よく部屋は放っておけば散らかると言われるやつか?)
  • 熱力学におけるエントロピーと、熱は必ず高いものから低いものへと伝わっていく(真夏の部屋に冷たい水を放置しておくと、いずれ水はぬるくなる)。
  • 人の死の状態とは正のエントロピーが最大になることとも言える(死体になれば自分で熱を生み出すこともなくなるので、物理的には環境の温度と同じになってゆくし、土に還ったりして形も保てなくなる)。
  • 生物体も、常にエントロピーが増大し続けている。(秩序から無秩序へ向かう)
  • このエントロピーが最大になる状態(死)を避けるために、生物は負のエントロピーを食べて生きる(なんか調べたところ負(マイナス)のエントロピーは存在しないっぽいので、負(ネガティブ)の方の比喩的な表現なのだろう)
  • 無秩序(死)の最大に到達しないよう、秩序(負のエントロピー)を取り入れる。マイナスのエントロピーはないらしいので、秩序ではなく、エントロピーの小さい無秩序を取り込んで混ぜ、最大の値から薄めることなのかな?(コーヒーにミルクを入れるとカフェオレになって、もうコーヒーとミルクに戻す、分離することはできないが、カフェオレにコーヒーを入れ続ければ薄めることはできる)
  • 生物体は環境から「秩序」を引き出すことにより維持されている。
  • 人は肉を食べ、ばらばらに分解し(一回エントロピーを大きくし)、それを自分の中に取り込んで部品とする(エントロピーを小さくする)、そして生命(秩序)を維持しようとする。

たぶん色々解釈間違っているだろうが、それでも面白い。

この本を読む前、風呂に入っている時にぼんやりと考えていたのが『自由の定義』である。私はこれについて、ここ数年は森博嗣先生の『自由をつくる 自在に生きる』を読んで「自由=自分の思い通りになること(剣豪が自在に刀を振るうニュアンス)」だと仮置きしていたんだけど、最近は「私の感覚だと自由=自律がニュアンス的に近いかも!」と思い直していた。つまり、なりたい理想像や、成したいことがまずあって、それを叶えるために、色々考えたり計画を立てて行動をすることができる状態である。この時、一番の問題はセルフコントロール能力がクソ雑魚なことであって、今日は眠いからいいか……とか、なんか習慣にしたいことがあったような……とかで忘れてしまい、維持することが出来ない。そうではなく、ちゃんと目的を覚えていて、そのために過不足のない行動が都度できること、なりたい型であること、これが私の考える自由=自律では?みたいな話なのだが、この自律をエントロピーの小さい方、秩序で考えるのはどうだろう。生物の死が無秩序であるなら、生命とはそれを秩序の方に傾けることである。外界の無秩序ではなく秩序(無秩序の小さい方)を取り込み、咀嚼した上で自分なりの秩序を維持することが、その個が生きているといえることなのでは、というところまで考えた。こんな翌朝になって見直したら転がりたくなるような話が『生物体は「負のエントロピー」を食べて生きている』の一文だけで次々に脳裏に湧いてくるのだから、っぱ名著よ。まあこの本を書かれたのがだいぶ昔(1944年)なので、多分現代で否定されている前提もあったり、その上で私の偏見メガネで歪んだ解釈をしているので、1年後には違う感想が出てくるかなという気もする。次はちゃんと最初から真面目に読むことにします。

結局のところ秩序→無秩序は不可逆性で、秩序に近づけようとして秩序を取り込み、無秩序を外に捨てるという行為は、単に場所を移動させただけなので、個人主義というか、悪あがきなのかもしれない。

自分と他人を比較するのはよくないよ Byヒトラー

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さっきまでは薔薇だったぼく / 最果 タヒ

現代詩というジャンルになるのかな。基本的に現実の恋愛にまつわるあれこれには斜に構えて見てしまう方なのだが(本当に人を愛したことがない人種か?)、小説や漫画、歌など創作の恋愛沙汰についてはファンタジーということで大変楽しんでいる(真に人を愛したことがない人種〜〜)。しかし、この現実と創作の区別が曖昧になる「詩」というカテゴリーについて、どのように反応すればいいのか考えあぐねている。詩だし、そこは感じたまま感じたことを受け取ればいいのか?詩集で恋愛の心情を描いた詩を見るたびにこんなことを考えたりするのは、言い訳している私自身もまあまあ面倒くさい。しかし、いつか何かを考えつくだろうと思って今日もまたぼんやりページを捲るのであった。なんの話だった?最果タヒさんの詩集は、その辺のメタな認知も織り込んだ上でやや自嘲ぎみ、まあそういうものだよね、といった諦観も含めて展開されるので受け入れやすいという話だよ。

一通り読んだ中で、「惑星」が一番しっくりくる。脳内に弊カプを住まわせている身としてとてもわかる。その次に、ああ…と共感が芽生えたのは「猫戦争」の前半だった。詩を読む時、余計な現実が目に入らなくなるので、その余白のある意識を錯覚できる瞬間が一番好きなのかも。

天才たちの人生図鑑 / 山崎圭一

自分と他人を比較するな
もし比較するならあなたは自分自身の自尊心を傷つけている

ヒトラー

天才たちの人生図鑑 P203

梨の実の味が知りたいのなら
自分の手でもぎ取って食べてみなければならない
本物の知識というものはすべて直接体験するなかで生ずる

毛沢東

天才たちの人生図鑑 P211

なんとなくパラパラと捲っていたんだけど、いい感じの偉人の名言が次々紹介される中、急にヒトラーや毛沢東の名言が飛び出てきたのでバチバチに笑ってしまった。特に自分と他人を比較しない、というのは現代でもよく言われることなので、危うく「自分と他人を比較するのはよそう!ヒトラーもそう言ってた!」みたいな構文が私の中で生まれてしまうところだった。

ハイパーインフレーション 37話 / 住吉九

ちょ……ちょちょちょ………ハイパーインフレーションまで展開を地獄にすな………タコピーのとき俺を励ましてくれたハイパーインフレが急にこんな……マジでそろそろ終わるのか?エーンもっと読んでいたいよ〜!

我は放つ光の白刃って英文法的だな

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われはロボット/ アイザック アシモフ

読了!

6章の「迷子のロボット」。ロボット心理学の博士の回想、恒星間旅行編。ロボット工学の第一条が正しく適用されていない、政府が極秘に作ったロボットが行方不明になって慌てる話。第一条は「ロボットは人間に危害を加えてはならない。また何も手を下さずに人間が危害を受けるのを黙視していてはならない。」という重要な前提である。それを無視するような危険なロボットを作るな、なんだ戦争目的か?と思ったが、どうやら、人間が強い放射能が降り注ぐ地域で作業をする際、その生命への危険性を看過できずになんとしてでも連れ戻そうとするので作業が進まない、やむ終えず第一条を緩和したロボットを少数作成したという話だそうな。
それを聞いたロボット心理学の博士は「バカなの?全てにおいて人間より優れているロボットに我々が命令できるのは第一条あってのことでは?」と。この世界のロボットは、劣ったものに侮蔑されたら怒りを感じるという、普通に人間式の解釈をして「理不尽である」ということについては『ならぬこと』なのだと認識を持つことができる。ロボットの自分よりも人間を優先する。明らかに自分より愚かで劣る人間たちを。このロボットは放っておいたら人間に害をなすだろう。どうするか、みたいな話。

第7章「逃避」。ロボットのジレンマの話。人間は不可能に直面すると、幻想に逃げ出す、酒に溺れる、ヒステリーに陥るなどする。ロボットはどうか?ということかな。今回はロボットのブレーンに、人間の生死が絡む問題というジレンマを与える。ロボット心理学の博士と、以前の短編で出てきた男の二人組が同時に出てくる。ブレーンの絡みで宇宙船ごと放り出される男二人。やがてその宇宙船は、人類初となるであろう太陽系の外へと星間ジャンプを始めーー。怖いわ。不安定なロボットが組んだ星間ジャンプ怖すぎるんだよな。

第8章「証拠」。そろそろ本の終わりが見えてきたぞ。前章で超空間ジャンプの方法を確立した人類。その少し後の話。とある一人の男・バイアリイが、実はロボットなのではないか?という疑惑を持たれた。その実態を見抜いてほしいと依頼を受けたロボット心理学者の博士。この行為には政治的な敵対を含んでいるもので、それ自体は馬鹿馬鹿しいと思うものの、ちょっと考え始める博士。もちろん、人間とロボットの体は構成要素が違う。X線で通せば一発でわかる。しかし、心理的、そしてロボット工学的に考えれば、人間とロボットの指向性になんの違いがあるのか?人間は人間、ロボットはロボット。その証左を示すにはどのような考察ができるか、という話かな。ロボットと疑われた男がロボット工学三原則を全て守ればロボットであろうと言えるが、同時に善良な人間も「私(ロボット)は人間に危害を加えてはならない。また何も手を下さずに人間が危害を受けるのを黙視していてはならない」を前提とするロボット工学三原則をすべて守るであろう。ロボットと、高潔な人間は区別がつかない。なるほど楽しくなってきた。この行政長官のロボットができる(?)って話、『ツインシグナル』のカルマの設定だな。古典を読むと漫画の元ネタがわかる、これも面白い。この小説おもろ……。最後の流れがとても良かった。

第9章「災厄のとき」。あれ!?まだ章ある!?前の章で、ページ的にもムード的にも終わったもんだと思ってたが!?
人類最後の戦いの前段階かも見たいな会話が行き交う不穏な流れ。『人間同盟』というロボット不要論を唱える組織がある。科学が発展しロボットが貢献するこの世では、人類は失業もなく、生産に過不足も起こらなくなった。飢餓とかいう言葉は歴史書の中にしかない。このような安寧の世界は続くものである、ただしそれは「マシンが正常に機能する間に限る」。世代が進み、自分達の創造物がもはや理解できなくなってきているのかもしれない。機械が判断を下す材料となるデータの真偽はどのように区別するのか?真実が一部混ざった虚偽のデータを、機械はどのように受け止める?そしてそれが累積していったならば、何が正常の基準になる?そして、その果ての正しさはどこへ向かう?人類の究極的な幸福に何が必要であるか、ロボットたちはそれについてどう考えているか、どのような未来が待ち受けているのか、という話。

最後は一気に読んでしまった。古典SF小説メッチャ面白いじゃん。続編もあるようなので、機会があれば手に取りたい。


全然関係ないんだけど、羽生善治先生の『人工知能の核心』でチラッと出てきた人工知能が描いた創作Aと人間が描いた創作B、人工知能が描いたというだけで創作Aの評価が下がるという現象、これその創作が持つであろう『情報量』の問題なのかな。森博嗣先生のVシリーズに出てくる保呂草というキャラクターが言っていた話だったと思うが、『美とは物体としての絵そのものにはない。それで満足するならその絵の写真でできるはずだ。己は、この絵を描いた画家の生き様の全てが美として絵に焼き付けている』みたいなことをいっていた(うろ覚え)。創作者のバックボーンも含めての「作品」であるなら、ロボットの創作は『化学物質』、人間の創作は『天然物質』に相当するのかもしれない。人間は、人間の生い立ちに関して推察できるその情報量の把握は共感で得やすいが、ロボットの生い立ちに関しては興味ゼロなので情報量的にはそんなに得られないのかもしれない。そういう意味では、ラーメン発見伝の芹沢さんの「やつらはラーメンを食っているんじゃない、情報を食っているんだ」が人間デフォルトなんだなあ、などとYoutubeを見ながら思いました。

何が正しいものかは判断がつかないが、この知識と知識の点を線で繋げた時の気づきが楽しい。